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205-3オバマ大統領はベトナムに対する武器輸出の全面解禁を発表。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160524-10001021-bbcv-int
オバマ米大統領が今週、ベトナムを訪問し、1975年のベトナム戦争終結後に同国を訪問した3人目の米大統領となった。オバマ大統領はベトナムに対する武器輸出の全面解禁を発表。一党独裁が続き、人権侵害を問題する向きもあるなかで、米国が禁輸解除を決めた背景には、中国が覇権を強めようとする南シナ海の情勢がある。現地で取材するジョナサン・ヘッド記者がリポートする。
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http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM23H5E_T20C16A5MM8000/
両首脳は環太平洋経済連携協定(TPP)発効に向けた国内手続きを急ぐ方針で一致。オバマ氏はベトナム戦争中に米軍がベトナムに散布した枯れ葉剤の処理で協力すると約束した。
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(↑これって にほんの かれはざいでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E8%91%89%E5%89%A4
アメリカ復員軍人局の資料によれば確認できるだけで8万3600キロリットルの枯葉剤が散布された[1]。コロンビア大学のジーン・ステルマンの調査では、散布地域と当時の集落分布をあわせて調査した結果、400万人のベトナム人が枯葉剤に曝露したとしている。
1969年6月末、サイゴンの日刊紙「ティン・サン」は枯葉剤散布地域での出産異常の増加に関する連載を開始した[1]が、当局によりすぐさま発禁処分となった。同年11月29日、全米科学振興協会 (AAAS) の年次総会にて、ハーバード大学のマシュー・メセルソン、バウマンらの散布地域における出産異常の激増に関する報告がなされた。同報告では、1959年から1968年の異常児出産4002例を調べ、散布強化された1966年以降、先天性口蓋裂が激増していること、奇形出産率がサイゴンで1000人中26人、集中散布地域のタイニンで1000人中64人にのぼった事が報告された。また散布地域の母乳のダイオキシン濃度で最高1450pptを検出、平均で484pptと、非散布地域・国に比べて非常に高い汚染状況にある事が報告された。1972年6月、ストックホルムでの国連環境会議で枯葉剤散布は主要議題となり、アメリカの批判派の科学者らから、ベトナムでの奇形児出産の増加を含む膨大な報告がなされた[2]。
沖縄の枯葉剤保管疑惑[編集]
ベトナム戦争中枯葉剤が沖縄に持ち込まれていたことが、沖縄で服務中に枯葉剤に被曝したとして健康被害の補償を求める米国退役軍人省の公文書や、保管されたマイクロフィルムで明るみに出た[3]。米軍は1971年毒ガス類を撤去するための移送作戦「オペレーション・レッドハット」を行い、沖縄の枯葉剤もハワイ沖ジョンストン島へ移送されたとされる[4]。沖縄で従軍した元兵士の疾患について枯葉剤による後遺症であると認められたものの[3]、一方アメリカ政府は沖縄における枯葉剤の存在を否定している。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO02651210T20C16A5000000/
米海軍がカムラン湾にあるベトナム戦争時の基地を再び使うことについてベトナム側が前向きに検討する構えさえみせている。関係改善を示すこれほど強い指標はそう他にはないだろう。
■武器禁輸の解除は中国挑発するリスク
だが、今武器禁輸を解除すれば、南シナ海を軍事化しているのは米国のほうだと主張する中国の術中にはまる恐れがある。また、フィリピンが自国領とみなす海域に対する中国の領有権の主張が合法か否かを巡るオランダ・ハーグの仲裁裁判所による国際的な判決を間近に控えた微妙な時期に中国政府を挑発するリスクを冒すことにもなる。
米政府は同盟国の正当な安全保障上の懸念を支持する一方で、力のバランスよりもむしろ法律に基づいた主張を行うよう注意する必要がある。ハーグの仲裁裁判所による判決は、東南アジア諸国の多くを不安に陥れている中国の領土拡大の野望に法の観点から光を当てることになる。
また、人権を侵害してきた過去があり、その改善の兆しがほとんど見られない政権に報いていると見られることにオバマ氏は注意すべきだ。ベトナムは数百万人を貧困から救うことにおいては非常に大きく前進しているが、いまだに地球上で最も抑圧的な政治環境を持つ国の一つだ。
戦争捕虜だったマケイン米上院議員は、ベトナムの海洋安全保障のために技術を売却することは制限されるべきではないとしながらも、他の武器の移転についてはケース・バイ・ケースで、人権問題と関連づけるべきだと主張した。これはバランスのとれたアプローチだろう。
オバマ氏はキューバからミャンマー、イランに至るまで、厄介な政権との関係を修復してきており、これは同政権のトレードマークだ。同氏はまた、米国の遺産がいまもなお議論を呼んでいる地域との和解にも努めてきた。米国とベトナムが関係を強化していることは祝福すべきことだ。
とは言うものの、オバマ氏は過去の対立を終わらせる一方で、今後新たな対立を招く危険性についても警戒しなければならない。
(2016年5月23日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
205-3オバマ大統領はベトナムに対する武器輸出の全面解禁を発表。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160524-10001021-bbcv-int
オバマ米大統領が今週、ベトナムを訪問し、1975年のベトナム戦争終結後に同国を訪問した3人目の米大統領となった。オバマ大統領はベトナムに対する武器輸出の全面解禁を発表。一党独裁が続き、人権侵害を問題する向きもあるなかで、米国が禁輸解除を決めた背景には、中国が覇権を強めようとする南シナ海の情勢がある。現地で取材するジョナサン・ヘッド記者がリポートする。
205-2ベトナム女性8人が決意の証言「私は韓国兵にレイプされた」
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20150622-01/1.htm
ついに勇気ある韓国紙が報じたが、他メディアは完全黙殺
ベトナム女性8人が決意の証言「私は韓国兵にレイプされた」
(SAPIO 2015年7月号掲載) 2015年6月22日(月)配信
文=藤原修平(在韓ジャーナリスト)
韓国が封印した「黒歴史」は、日本人に対する残虐行為だけではない。近年、クローズアップされているのが、本誌でも度々報じてきたベトナム戦争における韓国軍の蛮行の数々だ。次々と明かされる新事実を、韓国人はどのように受け止めているのか。
4月上旬、韓国の市民団体「平和博物館建立推進委員会」の招聘により、ベトナム戦争被害者のグエン・タン・ランさん(64)とグエン・ティ・タンさん(55)の男女2名が初訪韓を果たした。ランさんは1966年2月に発生した韓国軍による「ビンディン省タイヴィン村虐殺事件」(犠牲者65名)、タンさんは68年2月の「クアンナム省フォンニャット村・フォンニ村虐殺事件」(犠牲者74名)の生き残りだ。2人は4月8日、釜山市で開かれた集会に出席し、当時の様子を生々しく語った。
「韓国軍は事件当日の午後4時ごろ、自宅の防空壕に隠れていた私と母、そして妹を見つけて村の外に連れ出しました。そこには既に、20世帯以上の村民が集められていた。そして、ある兵士が叫ぶと、四方から銃弾が飛んできて、手榴弾が投げ込まれたのです。私は一命を取り留めましたが、妹は頭部を激しく損傷し、長い時間うめき声を上げながら絶命しました。下半身を飛ばされた母も、まもなく息を引き取りました」(ランさん)
一方、当時8歳だったタンさんは、この事件で家族と親戚5人を失い、自身も腹部に銃弾を受け重傷を負った。
「韓国兵2人が、村の防空壕に隠れていた私たち家族7人を発見し、手榴弾をちらつかせながら『出てこい』と呼びかけました。私たちが1人ずつ出ていくと、彼らは容赦なく銃弾を浴びせてきた。最初に出ていった姉は即死、兄は腹部と臀部を撃たれ、6歳の弟は顔を銃で撃ち抜かれたのです。さらに彼らは私たちの家に火を放ちました。止めに入った叔母はナイフで刺殺されました。家族の中で生き残ったのは私と兄だけ。兄はその後、身体も精神状態もボロボロになってしまった。日々、『死にたい』という気持ちを抑えながら生きています」
だが、2人の証言を報じた韓国主要メディアは皆無に等しく、大きく紙面を割いたのは韓国のリベラル紙『ハンギョレ』のみだった。同紙は4月25日付の朝刊でも、韓国軍によってレイプされたベトナム人被害女性8人の証言を3ページに亘って紹介。記事は、慰安婦問題で対日強硬姿勢をとる「挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)」の現地調査を引用する形で掲載された。
子を持つ母親も
レイプの標的に
ハンギョレに掲載されたのは、61歳から86歳の被害者8名の証言。その1人で今年80歳になるレ・ティ・ヒエウさんは「韓国人が今でも恐ろしい」と怯えた様子でこう語った。
「銃声がしたので、私は3人の子供を抱きかかえました。すると、3~4人の韓国軍兵士が家の中になだれ込み、私を捕まえて頭に銃を突きつけたのです。子供たちは庭に放り出され、私は裏の家に連れて行かれて輪姦されました。1人ずつ、順番にです」
また同紙は、韓国軍によるレイプが「組織的に行われていたことを示す証言も得られた」としたうえで、ビンディン省郊外に住む被害者、ファム・ティ・グォンさん(64)の話を紹介した。
「私はその日、35人余りの住民とともに捕まりました。(韓国兵は)基地に連行した私たちをまず男女に分け、次に子供がいる女性や年配の女性を別の場所に移動させました。そして、子供がいない若い女性や少女を1人ずつ塹壕の中に入れたのです。私は1人の兵士とともに塹壕の中に押し込められました。そして、2晩に亘って何度も何度もレイプされたのです。はっきりとは覚えていませんが、日中は2回、夜は3回ぐらいだったと思います」
韓国軍に捕虜として捕らえられたベトコン女性もまた、レイプの標的にされた。ベトナム戦争当時、韓国軍が軍用飛行場として使用していた南部のプーカット空港に連行されたファム・ティ・ハイエンさん(64)はこう証言する。
「(浴場で)身体を洗っていると、そこに兵士が入ってきました。私は力の限り抵抗しましたが、兵士に口を塞がれどうすることもできなかった。それから2か月間の拘束期間中に3回レイプされました。すべて別々の兵士です」
韓国兵はレイプだけでなく、拘束中のハイエンさんに電気ショックによる拷問や、殴る蹴るの暴行を日常的に加えた。ハイエンさんは拷問の後遺症により、いまでも神経系統の疾患を患っているという。
韓国の極右団体
が猛抗議
現地でレイプ被害者を調査した「挺対協」の尹美香・代表は、「私たちが他国に被害を与えたと認めなければ、日本の歴史歪曲に立ち向かうことはできない」と主張している。
そこには、ベトナム戦争被害者と慰安婦を同列に語ることで、日本政府から更なる謝罪と補償を得ようとする挺対協側の思惑が見え隠れするが、韓国軍によるレイプ被害者が顔と実名を公表して証言するのは異例のことだ。
しかし、他の韓国メディアはこのニュースをことごとく黙殺した。さらに、ベトナム戦争被害者の訪韓時には、元軍人で組織される韓国の極右団体「枯葉剤戦友会」のメンバー100名が講演会場を取り囲み、「殺してしまえ!」と罵声を上げるなど、激しい抗議活動を展開している。歴史を直視せず、恫喝によって相手を黙らせるいつもの手口だ。
戦後70年の今年は日韓国交正常化50周年でもあり、ベトナム戦争終結から40年の節目の年でもある。「正しい歴史認識」を掲げる朴槿恵大統領は、父・朴正熙のベトナム派兵によって引き起こされた戦争犯罪の数々を今こそ直視すべきではないか。
205-2「そのとき、赤ん坊が私の手の中に」
いちばん くるしむのは じょせい こども ろうじん。
これは ベトナムせんそうの おはなしですが、
ベトナムの ぶらくを しゅうげきすると おとこたちは じゅうで ていこうしてくるが その おとこたちを ころすと ジャングルに かくれたおんな こども さがしをする。
―
さがすさぎょうは かんたん
なんにちも のまずくわずなので こどもたちが ひもじさに たえかねて ひめいを あげる。
じぶんたちは ジャングルの おくふかくで じっと みをひそめているだけでいい。
こどもの なきごえで かくればがわかる。
おとしよりは にげあしがおそいので きかんじゅうや ヘリコプターの えじきになる。
おとしよりの したいや ひんしの じゅうしょうをおった ろうじんが あちこちに ころがっている・・・・・・となる。
―
むらを せめるとき じんこうちょうさを していて したいのかずを かぞえることで 「なんにん とりにがしたか」という しりょうになる。
集めてきたしたいを むらのひろばに もってきて おとこのしたい おんなのしたい こどものしたいと べつべつに わけて つみあげる。
(これは ぎゃくさつ ではないのか!?なんのための せんそうか しほんしゅぎを もちこむためか!?)
―
ジャングルの なかの したいさがしも
しごと。 はえの とぶおと はおとに ききみみを たてる。
はなで においを かぎまわる。
ふらんしたいの においは すさまじく おもわず いのなかのものが こみあげてきて ゲロをはく。めになみだがたまる はなじるがたれる ぜんしんの ちからが ぬけてしまうような きょうれつさ。
この きょうれつなにおいが わたしにとっての せんそうのにおい。
―
ジャングルにかくれていた じょせいが ことぢもをつれて ひろばに もどってくる。
そして したいのやまを めにして おさないこどもが じょせいの したいのやまに かけより なきだす。こと切れた ははおやに とりすがって はなれようとしない。
いきのこった ろうじんが 「のこされたのは わたしひとりだ・・・」といって なきくずれる。
―
○わたしの てのなかに あたらしい いのちが うまれおちた
じぶんの いきかたを かえた けっていてきな できごと
わたしたちの かいへいたいちゅうたいがあるむらを つうかしようとしていたとき
てきの きしゅうこうげきで おおくの なかまが きずつき いのちからがら にげまわった。
わたしは じんかの うらてにまわって ぼうくうごうに とびこんだ。
アメリカの くうばくに そなえて かくいえに ぼうくうごうを よういしていた。
そこに ベトナムの わかいじょせいが ひとりいた。
15,6さいくらい。
こしからしたは はだかで くるしそうに いきんでいた。
りょうあしの あいだに あかんぼうの あたまが のぞいていました。
じょせいが ひときはつよく いきんだとたん おもわず てを さしだした。
わたしの てのなかに あかんぼうが うまれおちた。
―
かのじょは わたしの てから うばいとるように あかんぼうを とりかえし じぶんの はで へそのお かみきって くろい ボロぬのに あかんぼうを くるむと にげるように ごうから はいだし ジャングルに すがたを けした。
ごうからでた わたしは べつの にんげんに なっていた。
「ヴェトナムのひとも おなじにんげんだ・・・」という おもいを もった。
―
○こっかは せんそうあいてを「にんげんじゃない」と おもいこませる。
「ヴェトナム人」は「グークス」
これは はくじんの たちばから とうなんアジアの ひとたちを よぶ べつしょう
「あさぐろい れんちゅう」
「コミュニスト きょうさんしゅぎしゃ」
「めの つりあがった れんちゅう」のいみ
―
「にほんじん」は「ジャップ」、ラッツ(のねずみ)とおなじ
にほんじんに とって アメリカじん や イギリスじんは「鬼畜米英」
「中国人」は「チャンコロ」ロシアじんは「ロスケ」
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げんざい アメリカへいは イラクじんを 「さばくのサル」とよぶ。
つまり にんげんじゃない。
―
あかんぼう たんじょうの いっけんを さかいにして わたしは あえて いっぽふみだして ヴェトナムじんたちと まじわるようになった。ヴェトナムのおかあさんたちから たべものや くすりや もうふを ねだられたら それを べいぐんきちからもちだして「おこさんのために つかってほしい」と あたえることもあった。
―
これは いまも くりかえされている。
パレスチナ、アフガニスタン、イラク、アフリカのかくちで・・・、げんじつに おこりつつある。
―
たいへいようせんそうでは
もつとも はげしい ちじょうせんが おきなわ、20まんにん といわれる おきなわのひとが いのちを おとした。
おきなわせんの さなかにも おきなわの じょせいたちは わかあなで かわべりで くさむらで みちばたで あらたな いのちを うみつづけていた。
―
その おきなはが 60ねんたっても かいほうされていない。べいぐんきちが そこにあるために ひび、せいめいが おびやかされる きょうふに さらされている。
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じゅうねんまえに おきなわの 12さいの しょうじょが 3にんの アメリカへいに ごうかんされる。
「あの じけんを きっかけに きちへんかんとうそうが もりあがった」といわれますが あれが はじめての ぼうこうじけんではなく なんぜんけんもの ぼうこうじけんが ほうじられている。
とどけでも はばかられる じけんも おおくあった。
アメリカへいの おこした じどうしゃじこのために いのちを おとしたひと じゅうしょうを おったひとも かずおおくあった。
おきなわの こどもたちは きちに とりかこまれたなかで せいかつしている。
こそだてに こんなに きけんなばしょはない。
こどもたちは まいにち いえや がっこうの うえを かすめとぶ じぇっときの おと たいほうのおと きかんじゅうのおと を ききながら せいかつしている。
めのまえのみちを たいりょうはかいへいき や せんしゃ の たいれつが おうこうするのを みながらトラックに 乗ったへいしが ひとごろしの くんれんに でかけるのを みながら せいかつしている。
205-1「そのとき、赤ん坊が私の手の中に」
元アメリカ海兵隊員アレン・ネルソン さんのほんです・2006ねんしょきん
拳法9条こそ世界の希望とあります
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アメリカは かくさしゃかい
アメリカのホームレスは だんせい だけでなく じょせいや こどもも ふくまれる。
じょせいや こどもたちが みちばたや こうえんで「ホームレスようの シェルター」でくらしている。ニューヨークには3まん1せんにんもの ホームレスがいる。
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しょくりょうひんてんで かいものをすると 「どうか つりせんを めぐんでください・・・」と てをさしだす わかいははおやたちが まっている。こういう じょうけいが にちじょうさはんじだそうです。
アレン・ネルソンさんの おかあさんは おんなでひとつで4にんのこを そだてました。
ニューヨーク ブルックリンのスラムがい うまれ。
たえず ぼうりょくじけんや さつじんじけん が はっせいし しつぎょうしゃがあふれ うつびょう アルちゅう
まやくちゅうどくかんじゃ・・・が たむろしていた。
かていないぼうりょく じどうぎゃくたい 十代のわかいじょせいの にんしんし・・・・・・といった しんこくな しゃかいんだいが はっせいしていた。
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まずしさゆえに かいへいたいに・・・そのとき ははおやは おこって なきくずれた
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せんじょうで ころしあうのは まずしい しょみんどうし。
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ぐんたいの くんれんと にんむは「ころし」
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「かまえ じゅう!」おきなわでは「ひとがた」の まとだった
アメリカから ヴェトナムに ちょっこうしたわけではない。
おきなわ の 金竹町のキャンプ・ハンセンに はいぞくされ じっせんくんれん。
おきなわの くんれんで すべてが かわり じつだんで しゃげきくんれん。
せんしゃや ヘリコプターと きょうどうで そんみんを にがさない「そんらくほういさくせん」も やった。
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しゃげきくんれんで ねらうところは (おとこの こかん)うちそんじは ゆるされない そこな なんぱつも うちこみ そくしすることはないが せんゆうたち 18とか19の わかものが げきつうのなか なんじかんも なきわめいて しんでいく。
―
かんがえてみれは「アメリカでは しゃげきくんれん、おきなわでは さつじんくんれんをしていた」