よしの85-3九州建設アスベスト訴訟3人意見陳述
遺族原告中村吉子さん
被災者故中村保茂さん
(享年
65
歳・内装工)
夫は、
18
歳の頃に夫の叔父がして
いた内装工の仕事を始めました。
夫は昭和56
年に独立し、以降、平
成17
年に肺ガンであることがわかる
まで、ずっと一人親方として内装工
の仕事を続けてきました。
主に壁や天井にボードを切り貼り
する仕事で、私も、たまに清掃等の
手伝いに行くことがあり、換気装置
や集じん機が全くない屋内の現場で、
夫がいつも作業着から鼻の中までホ
コリまみれになっていたことをよく
覚えています。夫は、換気口もない
こうした現場で、
40
年以上毎日のよ
うに粉じんを浴び続けたのでした。
夫の闘病生活
夫はとても健康で、これといった
病気もしませんでした。肺ガンで体
調を崩すまでの間、夫が休日以外に
仕事を休むことは1日もありません
でした。
夫が入院することになったのは、
夫が64
歳の時でした。平成17
年、夫
はどことなく以前より疲れやすくな
り、そのうちによく咳をするように
なりました。咳はだんだんとひどく
なり、「きつい、きつい」と言って
休みがちになっていきました。
9月21
日、夫が自宅の近くの医院
で受診すると、医師に「明日にでも
病院に行くように」と言われ、翌日
病院に連れて行くと、すぐに入院と
なりました。夫は、手術を受けるこ
とになり、その手術で肺ガンだとい
うことが分かりました。私たち家族
はただ茫然とするばかりでした。
翌月から抗ガン剤治療を開始する
ことになったため、夫に肺ガンであ
ることを告げると、夫は一瞬「はっ」
と驚いた表情を見せましたが、その
後は「治療するしかなかろうもん」
とだけ言い、またいつものように寡
黙となりました。
翌年7月12
日、夫の抗ガン剤治療
に効果がみられなくなり、治療をや
め、自宅で経過観察をすることとな
りました。この頃から、夫の食欲は
どんどん落ち、手に持った物をよく
落とすようになりました。さらに水
疱瘡のような水泡が一つ、また一つ
と脇から背中にでき、どんどん大き
くなり、最後には破れて、ガーゼや
シャツから滲み出るほどの膿が出る
ようになりました。患部はまるで火
傷の痕のようで、明らかにひどい痛
みがあるはずなのに、それでも「痛
い」とは一言も言いませんでした。
11
月29
日、二女が出産し、数日後、
生まれたばかりの小さな孫を連れて
帰って来ました。この時、夫が生ま
れたばかりの小さな孫を抱いて撮っ
た写真が、夫の最後の写真になると
は、想像さえできませんでした。
夫の死
12
月14
日、夫は介護士である長女
の勤務先である篠栗病院に再入院し
ました。夫は再入院後も、私にも看
護師さんたちにも痛みなどを訴える
ことはなく、死後、看護師さんたち
が「本当に気丈な人でした」と言っ
てくださったほどでした。
しかしその一方で、夫は夜になる
と「家に帰る」と看護師さんに繰り
返し訴えていたそうです。いつも気
丈だった夫が、子どものように家に
帰りたいと訴えていたことや、それ
を知りながら私を気遣って長い間隠
していた長女の心中を思うと、どう
しようもなく胸が痛んでなりません。
平成19
年1月3日、病院から自宅
に夫が亡くなったとの連絡が入り、
私は頭の中が真っ白になりました。
私は、まさかそんなに急に夫が亡く
なるとは夢にも思わず、前日に「ま
た明日来るね」と言って自宅に帰っ
たのです。
当時私が付けていた手帳を見ると、
この日「おじいちゃん他界。どうし
て」とだけ書かれています。
救済法認定と健康管理手帳の申請
夫の肺ガンがアスベストだと疑っ
たのは、テレビでアスベストのこと
を知った長女でした。長女は、担当
医に相談した上で石綿健康被害医療
手帳の交付申請をしました。その結
果、平成18
年
10
月に、夫は手帳の交
付を受けました。
その頃、私と長女は、福岡労働局
に健康管理手帳の交付申請もしまし
た。ところが、必要書類を揃え、福
岡労働局に行ったところ、担当職員
の方に、「一人親方は労働者じゃな
いですもんね。手続きしても無理」
と言われたのです。これには衝撃を
受け「労働者じゃないってどういう
ことなんですか」と詰め寄りました。
私も長女も、このときの悔しさは忘
れられません。
私たち家族の思い
夫は、アスベストが危険だという
ことを、全く知りませんでした。40
年以上もの間、ひたすらまじめに働
き、その結果穏やかな老後を楽しむ
こともできずに亡くなってしまった
のです。
夫は何があっても愚痴ひとつこぼ
さず仕事に打ち込んできました。家
庭では寡黙で優しい夫であり父でし
た。そして孫たちにとっては優しい
おじいちゃんでした。長女は、今で
も涙ながらに「こんなに早く亡くな
るのであれば、家で看取ってあげれ
ばよかった」と語ります。
建材メーカーは、危険なアスベス
トを、一体なぜ、製造してきたので
しょうか。また国は、なぜアスベス
トが危険であることを夫に教えてく
れなかったのでしょうか。なぜもっ
と早く、アスベストの製造や使用を
禁止してくれなかったのでしょうか。
建材メーカーや国には、私たちの
疑問に答え、そして私たちの苦しみ
を理解してほしいと思います。