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仏のよしのさん。

よしの85-2九州建設アスベスト訴訟3人意見陳述

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よしの85-2九州建設アスベスト訴訟3人意見陳述

よしの85-2九州建設アスベスト訴訟3人意見陳述

遺族原告池口克子さん
被災者故池口雅利さん
(享年
63
歳・電工)

私の夫は、昭和
40
年に働き始めて
から、平成24
年に入院する直前まで、
47年間に亘り、電工として働いて
いました。
(大工さんより電工さんのほうが粉塵をあびるでしょうか?)
そして、平成
24
年3月
28
日、悪性中皮腫により亡くなりまし
た。63
歳でした。
夫は、真面目で仕事熱心な人で、
休むことなく必死で働いていました。
33
年の結婚生活、子ども2人との幸
せな生活が続いたのも、夫が真面目
に仕事に取り組み、私の性格を受け
止めてくれたからだと思います。
夫の発病と闘病生活
夫は平成
18
年頃から頻繁に咳と痰
がでるようになりましたが、夫も私
も特別気にかけませんでした。
平成23

11
月、咳がひどくなり、
息切れを起こし、きつそうな表情を
見せるようになりました。そのよう
な様子でも「仕事に行かなきゃ」と、
仕事に行っていました。
平成
24
年1月24
日に、病院に行き
ましたが、肺炎と診断され、1週間
の検査入院、抗生剤を投与しながら
経過観察することになりました。
しかし、入院してからの夫の闘病
生活は、まさに過酷なものでした。
当初、呼吸の補助器具を付け、時々、
ストローぐらいの大きさのチューブ
を鼻から直接入れ痰を吸引する治療
をおこなっていたのですが、チュー
ブに血が混じり、夫が痛そうな表情
をしていたのを覚えています。
1月
31
日、さらに息がきつそうに
なり、鼻から直接肺までチューブを
入れました。夫は、チューブのあま
りの違和感に、ベッドを叩いたり、
足を動かしたりしていました。その
ため無理にでも眠らせるようモルヒ
ネを投与されました。
それでも改善する様子がなく、2

14
日、夫の喉を切開して、そこか
ら直接チューブを入れ酸素を与える
手術となりました。
3月3日、担当医師から「肺ガン
の末期状態で、余命数ヶ月」と告げ
られました。私は「ついこの前の正
月には家族でお酒を飲み、元気そう
だったのにどうして」と思いました。
夫を失うことを受け入れることはで
きませんでした。
その後、集中治療室から、私がずっ
と付き添うことを条件に個室に移り
ました。夫は、喉のチューブを何度
もとろうとしたり、つけられた点滴
を何度も外そうとしたりしていまし
た。
(点滴の名前を知りたいです。)
まさに、自ら死を望むような様

子でした。手足をバタバタさせ、チュー
ブをとろうとするのを私たち家族が
抑えようとしましたが、振り払おう
とするため、一日中ベッドに縛られ
るようになりました。
入院からわずか2ヶ月後の3月28
日、夫は亡くなりました。1週間の
検査入院だったはずが、病状が一気
に悪化し、苦しい闘病生活の上、帰
宅できないまま亡くなりました。
心情
私は、夫が亡くなった時の様子を
全く覚えていません。夫の死には多
くの人が付き添いましたが、そこに
誰がいて、何を話し、そこから家に
どのように帰ったか記憶にありませ
ん。夫の突然の死を受け入れること
ができませんでした。
今でも、夫と一緒によく通った道
を通るとき、買い物に行って1人分
の食事のみを買う時、夜1人で食事
をする時、夜1人で過ごす時、どう
しても夫のことを思い出してしまい
ます。夫は、仕事熱心で、家族にも、
周りにも優しく、穏やかな人でした。
そのような夫がなぜ、このように
過酷で悲惨な死に方をしなければな
らないのでしょうか。また、夫はこ
れからの余生を大好きな孫と釣りを
したりして過ごすことを楽しみにし
ていました。そのような生活を、な
ぜ突然奪われなければならないので
しょうか。
アスベストさえなければ、夫は穏
やかな死に方ができたかもしれない
し、孫と目一杯遊ぶことができたは
ずです。無念で仕方がなかったと思
います。私は、夫の気持ちを代弁し
たいと思います。
国やアスベスト製品を作っていた
メーカーには、夫のあの耐えがたい
死を償っていただきたいと思います。
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