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よしの167-1お浄土
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F
浄土(じょうど)とは、仏教における概念で、清浄で清涼な世界を指す。浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界などとも言われる。穢土(えど)と対となる語である。
穢土[ソースを編集]
浄土と対となる語である穢土とは、穢国ともいわれるように穢悪(えあく)に満ちた世界である。
ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
概説[ソースを編集]
精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。
『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。
そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。
このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。
浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、さとりを開かせるためである。雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利・利他の二利満足の場である。
これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする浄土教を形成する。
別世界に浄土の建立を説くのではなく、この世界をそのまま浄土に変現するという考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『維摩経』の趣旨によれば、この世界にありながらこの世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『法華経』に、この娑婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ずと説くものである(娑婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界である。
また、仏土のように慕われたものに弥勒菩薩の兜率天の内院、観音菩薩の補陀落山などがあり、ある意味で浄土に準ずるものである。
最も浄土として特色のあるのは、この世界とは別に、仏によって建立せられた浄土があるという考え方である。その浄土へ往って仏に導かれて自分も悟りをうるとする浄土の考え方である。
関連文献[ソースを編集]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F
往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。
極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという
本来の意義[編集]
往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事である。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、仏になる事にある。
必然性[編集]
何故仏国土に往生する事が、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導きと仏による成仏への保証(授記)がなければならないからで、これらのない独自の修行は、阿羅漢(あらかん)や辟支仏(びゃくしぶつ)となる事は出来るが、それらになると二度と仏となる事が出来ない、と大乗仏教では考えられていた。
仏教のさとりは無我の証得である。自己の空無なる事を悟るためには、修行している事に「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に逢仏、見仏を必要とする理由がある、というのが浄土門の立場である。
一般に「往生する」とは[編集]
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。
そこから意味が派生して、往生とは仏になる事と考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。
この往生の意味が、さらに俗化して「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を往生するとなったと考えられる。
参考用語[編集]
参考文献[編集]