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仏のよしのさん。

よしの167豊前市宇島の教圓寺だより

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よしの167豊前市宇島の教圓寺だより

 

 

よしの167豊前市宇島の教圓寺だより

http://blog.goo.ne.jp/tmtr_2006

浄土真宗のお寺です。

先日寄らせていただきました。

そして、フリーペーパーの教員寺だよりいただきまして、読みまして、歴史って何だろうって思いました。

 

http://digital.asahi.com/area/fukuoka/articles/MTW20160725411540003.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_MTW20160725411540003

大分・中津 暗闇の思想、新たな輝き

大分県中津市の中津川のほとりを歩いた。晴れた空に薄雲が棚引いていた。

 穏やかな豊前海にそそぐ山国川は、河口付近で中州の小祝島をはさんで中津川へと分かれる。

 作家松下竜一さん(1937~2004)〈注〉の「豆腐屋の四季」の読者なら、高校卒業後、進学を断念し、豆腐屋として働くことになった青年が、青春の屈折した思いを抱いて小祝島の得意先に自転車で豆腐を配達する切ない光景はよく知るところだろう。中津市内の松下さんの自宅から歩いて10分ほどの中津川沿いの道は長年、妻の洋子さん(67)との散歩道だった。

    *

 朝日歌壇に短歌を投稿した松下さんが初入選を果たした作品、

 《泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん》

には、都会に出ることなく地方に居残った若者が抱く哀(かな)しみと怒りがこもる。

 一方で、松下さんは執筆活動のかたわら、故郷の海を埋め立てて建設されようとしていた豊前火力発電所建設反対の住民運動のただ中に飛び込んだ。建設差し止め訴訟を起こし、発言を続けた。

 「故郷の海を守りたい」という思いが、清貧の中で歌作を続ける模範青年を闘う作家に変えていた。

 昔、松下さんにお会いしたことがある。「ルイズ―父に貰いし名は」の取材にかかろうとされていたころだ。

 当時、地方紙の記者をしていた私は、ある集会でのパネリストをお願いした。その打ち合わせのため中津市のご自宅をお訪ねしたのだ。

 集会の趣旨を聞かれた松下さんは「他の人にも聞かせたいから」と、近くで開かれていた住民運動の仲間たちの勉強会に私を連れていった。松下さんを支え続けた友、梶原得三郎さん(77)のお宅ではなかったか。

 中津市を訪れたのは夕方だった。勉強会に案内されるころには日が落ちていた。

 夜道を案内してくれる松下さんは下駄(げた)履きで、カラ、カラと下駄の音が響いた。その飄々(ひょうひょう)と軽みを帯びた音がいまも耳の奥に残っている。

    *

 三十数年ぶりに中津を訪れ、松下さんの散歩道を梶原さんと、やはり松下さんを手助けした新木安利さん(66)とともに歩いた。

 日差しに照らされる川の土手に立つと景色はことのほか美しく感じられた。早朝に豆腐を配達して、

 《瀬に降りん白鷺(しらさぎ)の群舞いており豆腐配りて帰る夜明けを》

と詠(うた)った風景だ。

 松下さんの自宅の裏は福沢諭吉(1835~1901)の旧居である。著書「文明論之概略」(1875年)で、西洋文明を学ぶのは国家の独立を果たすためであると主張し、わが国が近代化に驀進(ばくしん)する道筋を開いたのが福沢諭吉であるとするならば、住民運動で「環境権」を主張し、近代国家に大きな異議を唱えたのが松下さんだ。

 福沢は中津を出て大きく飛翔(ひしょう)する。一方、松下さんは生涯、故郷を離れなかった。

 松下さんの著書「暗闇の思想を」には、豊前火力発電所建設に反対することへの嫌がらせが相次ぎ、ふと思いついて真冬の一夜、家中の電気を止めた経験が書かれている。その時の幼子との会話は次のようだった。

 《「なあ、とうちゃんちゃ。なし、でんきつけんのん?」
  「うん。窓から、よう星の見えるごとおもうてなあ」
  「そうかあ。ほしみるき、くろおうしちょるんかあ」》

 寒さをこらえて開けた窓から星が見えた。現代社会に電力は欠かせないが、一方で暗闇の中にもひとの幸せはある。

 《「国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと」》

 東日本大震災により福島原発の大事故が引き起こされたいま、「暗闇の思想」は古びることなく、新たな輝きを持つ。

    *

 川を眺めて歩くうちに、梶原さんが身をかがめて土手の野草を手にした。

 「風草です」

 風草はイネ科の多年草で小さな穂をつける。見れば土手の風草の群れが風に揺れている。

 松下さんは河口で、パンの耳をちぎってカモメに与え、季節の草花などを眺めるのが好きだったという。

 11年前、2004年6月17日に松下さんは、亡くなった。だが、魂から発せられた思いは、今もひとを揺り動かし続ける。

 青空の下、静かにそよぐ風草のように。

    *

 <松下竜一さん> 高校卒業後、母の死で大学進学をあきらめ、19歳で家業の豆腐屋を継ぐ。仕事の厳しさや暮らしの貧しさを短歌とともにつづり、1968年に自費出版した「豆腐屋の四季」は翌69年に出版社から刊行されてベストセラーとなり、緒形拳主演でテレビドラマ化され、脚光を浴びた。
 70年から作家に専念する一方、73年に九州電力豊前火力発電所(福岡県豊前市)の建設差し止めを求め、梶原得三郎さんら仲間と7人で、弁護士なしの本人訴訟として提訴。「環境権」を掲げて闘い、85年に最高裁で敗訴が確定したが、運動の機関誌「草の根通信」は反戦平和や反核、人権へとテーマを広げ、04年7月まで続いた。
 大正期のアナーキスト大杉栄と伊藤野枝の娘、伊藤ルイさんの半生を描いた「ルイズ―父に貰いし名は」(82年)で第4回講談社ノンフィクション賞。他の著作に「暗闇の思想を」(74年)、「砦に拠る」(77年)、「底ぬけビンボー暮らし」(96年)など。

    ◇

 はむろ・りん 1951年、北九州市小倉生まれ。地方紙記者などを経て、2005年に「乾山晩愁」で歴史文学賞を受賞し、作家デビュー。西日本を舞台にした歴史小説が多い。07年に「銀漢の賦」で松本清張賞。12年に直木賞を受賞した「蜩(ひぐらし)ノ記」は映画化されてヒットした。近刊に「春雷」「影踏み鬼 新撰組篠原泰之進日録」など。久留米市在住。

 曙光(しょこう)…夜明けのひかり。暗黒の中にわずかに現れはじめる明るいきざし(広辞苑から)

 

 

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