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仏のよしのさん。

よしの7メキシコで日本料理店で多額の借金かえす。

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よしの7メキシコで日本料理店で多額の借金かえす。

よしの7メキシコで日本料理店で多額の借金かえす。

http://chiebukuro.travel.yahoo.co.jp/detail.html?qid=1390697583&p=%25E3%2583%25A1%25E3%2582%25AD%25E3%2582%25B7%25E3%2582%25B3

メキシコの貨幣価値は日本の何文の一ですか?

1メキシコペソ=6円弱。(平成24年7月15日現在)

平均の月収は44400円位。 日本は、314600円。

メキシコの 貨幣価値は にほんよりも ずいぶん ひくそうなのに しゃっきん返済のめどが 3ねんで たつのは すごいなあと おもいました。

そういえば 小池百合子さんの お母様は エジプトで 日本料理店でした。

 

舛添さんが お金のことで たたかれて 東京都知事やめられましたが 小池さんも 防衛大臣のとき あてな なしの 領収書が たくさんあったとか。

 

http://vukivuki.cocolog-nifty.com/myonoshoran/2017/02/post-bd8e.html

現代社会が直面する課題に向き合い、創価の思想・哲学の価値について考える「グローバルウオッチ」。今回の「“不安社会”の中で②」では、数年に及ぶ引きこもりを乗り越え、社会復帰を果たした2人の男子部員を紹介する。(記事=小野顕一)

 10年前、24歳の田中秀明さんは面食らった。
 大阪で同居する両親から、唐突に「メキシコに渡って一家で日本料理店を開く」と告げられたからだ。
 その5年前に父の会社が破綻し、多額の借金を抱えていた。田中さんは、大学をわずか2カ月で中退。職を転々としながら返済を支えたが、利息分の支払いがやっとだった。
 そんな田中さんのことを気に掛け、心配してくれたのが、兵庫に住む中学時代の親友だった。交通費を出して田中さんを自宅に招き、励ましてくれた。
 2007年秋、メキシコでの生活が始まったが、折から発生した誘拐事件の影響で夜間は外出が制限され、店と自宅を往復するばかり。仕事を終えて部屋に戻ると、兵庫の親友とオンラインゲームに明け暮れた。
 チャット(文字での雑談)するうちに、田中さんは、親友が家に引きこもっていることを知った。“日本に戻ったら、何かで彼の力になりたい。NPOに入り、そうした境遇の人に尽くしたい”。漠然としたイメージだが、将来の目標が見えた。
 料理店は幸い大繁盛。3年がたつころには、借金返済のめども付いた。田中さんは両親に自分の夢を伝え、一人、日本へ。親友と再会を喜び、その後、神奈川で介護施設に就職した。
 利用者への対応に忙殺されていたある日、親友から電話があった。「本音が言える場所って、パソコンだけやんな……」
 田中さんは「そんなことないよ」「また遊ぼう」と電話を切った。
 その1週間後、親友は自ら死を選んだ。携帯の発信履歴の最後に、田中さんの名があった。
 その日を境に、田中さんは眠れなくなった。仕事でもミスを連発。“自分は駄目な人間なんや”――途端に人が怖くなり、仕事を辞めた。同じころ、感染症の影響からメキシコの店をたたむことに。日本で家族そろって暮らすことになった。
 “将来なんて考えられるわけない。親友すら救えんかった”とふさぎ込む田中さんに、母は「また一から頑張ろう」。久々の家族のぬくもりが身にしみた。
 一家は三重県鳥羽市に居を移す。父がパーキンソン病を患い、田中さんは介護を引き受けた。「いっそ自分も……」と考えたが、家族にさらなる苦しみを味わわせるわけにはいかないと思いとどまった。
 家に引きこもるようになって3年余りがたった2013年。母から学会の教学試験の受験を勧められた。家に仏壇はあったが、信仰には無自覚だった。
 31歳になっていた。田中さんは、何かが変わるならと受験を承諾した。マスクで顔を隠して勉強会へ。“終わったらすぐ帰ろう”。そう思った矢先、声を掛けてきたのが藤原淳さん(当時、男子部副本部長)だった。
 田中さんのゲーム好きを知ってか知らずか、「RPG(ロールプレイングゲーム)に例えるとね、俗衆増上慢が雑魚で、道門増上慢が中ボスで、僭聖増上慢が最後のボスなんだ」。
 思わず田中さんの頬が緩む。「真剣に教えてくれるかと思ったら、雑談ばかりで笑かしてくれて」――心から笑えたのは、親友を亡くして以来だった。
 藤原さんは、連日のように田中さんのもとへ。勉強が一段落すると、ドライブや食事に繰り出した。時には自宅に呼んで手料理を振る舞った。
 教学試験の合格の報が届くころには、勤行・唱題が田中さんの大切な日課となっていた。
 “以前は、自分も藤原さんのように、誰かに尽くせる人になりたいと思っていたはずだ”
 亡き友の分まで生きるという思いが、祈りとなってあふれた。
 田中さんは昨年4月にリサイクル企業に就職。今、男子部部長として友の励ましに駆ける。

自他不二の哲学
 藤原さんは、なぜ田中さんに寄り添い続けたのだろう。
 「むしろ、救われたのは僕の方だったんです」
 田中さんに会う前、藤原さんは仕事などに行き詰まりを感じていた。ところが、“変わりたい”と純粋に信心に励む田中さんに接するうちに気力が湧いたという。「とにかく一緒にいて楽しかった。彼に会ってなかったら、今の自分はありません」
 そうほほ笑む藤原さんの笑顔に、法華経の不軽品に説かれる「自他不二」の哲学を思った。
 本来、自己と他者の生命は一体不二であり、人に尽くすことで自らの希望も開かれる。
 自他不二の視点で見れば、他者は自分を映す鏡ともいえる。人も自分も同じく悩みを持っていると思えるから、関わらずにはいられない。その関わりの中で自他共に生きる力を得る。
 そうした励ましの軌跡が、世界各地でつづられている。
自分を取り戻す
 ベルギーの首都ブリュッセルに暮らすファビオ・ガットビージョさん(男子部班長)は、イタリア・ローマ出身。幼い時に暴行を受け、トラウマ(心的外傷)に苦しんできた。
 洋服店経営を志していたが、大学で専攻していた学科が突然の閉鎖。そのまま退学となり、引きこもり状態となった。
 日本で引きこもりは100万人を超えるともいわれるが、世界的にも広がっており、欧州でもイタリアやフランスなどで社会問題化している。
 陽気で社交的なイメージがあるイタリア人からは想像しにくいが、日本語の「HIKIKOMORI」が新聞やサイトの見出しになることもある。
 「何のために生きるのか。目標を見つけられない自分にいらだっていました」とガットビージョさん。3年間、来る日も来る日も自分を責め続けた。
 そんなある日、SGIメンバーから座談会に誘われる。
 人と会うのが嫌だったガットビージョさんだが、温かな歓迎を受け、まるで家族に会えたかのような気持ちを覚えた。さらに、青年の体験発表に驚いた。
 自分の経験と似た状況から立ち直った内容だった。
 「自殺未遂を乗り越え、信心で自分を取り戻した体験でした。人の顔色をうかがわなくていいと知り、希望を感じました」
 唱題に励むと、不思議と笑顔が出るようになり、友人もできた。その後、SGIの一員に。
 ある集いの折、トラウマと必死に向き合っていることを話すと、同志は「勇気をくれてありがとう」と、口々に感謝を語ってくれた。何の価値もないと思っていた人生が、誰かに希望を送れるものに変わっていった。
 ガットビージョさんは運転手の仕事に就き、一昨年にブリュッセルへやって来た。
 多様な国籍の人が暮らす同都市では、人々が向き合う悩みもさまざま。昨年3月には、空港と駅が同時テロに襲われた。心の空虚さや無力感から、将来を悲観する若者も少なくない。
 ガットビージョさんの体験はそうした人にも、前を向く力を与えている。「彼に元気をもらった」という声を複数聞いた。

 

孤独にしない
 池田先生は「自他不二」について語っている。
 「『孤独』になってはいけない。人を『孤独』にしてもいけない。悩みに寄りそって、その苦しい『心音』に耳をかたむけてあげなければ。そうすることによって、じつは自分自身が癒されていく」
 「人の『生きる力』を引き出した分だけ、自分の『生きる力』も増していく。人の生命を拡大してあげた分だけ、自分の生命も拡大する。これが菩薩道の妙です。『利他』と『自利』の一致です」――と。
 学会は“誰も置き去りにしない世界”。なぜなら、不安の中で閉じこもるその人もまた、見いだした希望を胸に、やがて誰かの心を開く存在となることを信じているから。
 この生命の触発の連続が、創価(価値創造)の生き方の実像であろう。
 感想・意見をお寄せください メール:g-w@seikyo-np.jp ファクス:03-5360-9613

 

 

 

 

http://vukivuki.cocolog-nifty.com/myonoshoran/2017/02/post-8d02-1.html

2017年 24日 聖教新聞

“本音”の発見
 滝口修さん(千葉県船橋市、総県男子部長)は、祖母も両親も創価学会員の“学会3世”。友達が自宅に来た時、仏間から響く母の唱題を恥ずかしく思うようになったのは、中学生のころだった。夜遊びを覚えると、15歳でスケートボード、18歳でラップを始め、ストリートが居場所になった。
 仲間たちと群れるのが楽しかった。だが、周囲で相次ぐ交通事故や内輪のけんか。本音で話せる友達がいないことにも気付いてしまう。20歳を過ぎると、自然に縁が切れたが――。
 この先、何をするかと考え、また気付いてしまった。
 やりたいことが、ない。
 手本にしたい人も、いない。 
 自分が見えなかった。
 梅村清さん(同市、現・壮年部県書記長)は、そんな滝口さんの自宅に、男子部の先輩として通い続けた。
 「彼は、好奇心は旺盛だなという印象。誰かの役に立てる人間になりたいと、心の底では願っているんだと感じた。ぜひ一緒に学会活動したいと思った」
 ある日、滝口さんは、日頃の疑問を梅村さんに聞いてみた。「うちにもよく来てくれますけど、何でそんなに、人のことに一生懸命なんですか?」
 答えはすぐに返ってきた。
 「そういう生き方が一番幸せだと、池田先生の行動に教えてもらったからかな
 気付かされた。梅村さんたち学会員は、人の役に立とうと本気で思っている。だから、こちらも本音を話せるし、そういう人と話すから、自分の本心も、少しずつ見えてくるのだ――。
 アルバイトから正社員に採用された印鑑等の販売会社で、人の3倍貢献し、結果を出す。それが、本気でやりたいことだと思えるようになった。
 2006年、さらに自身を見つめ直す出来事があった。信心で変われる喜びを伝えたいと思っていた親友が、突然の病で、亡くなったのだ。
 先輩と一緒に泣いた。さらに考えるようになった。これから自分は、彼の分まで、どう生きるのか――。
 今も、明確な答えが出ているわけではない。「でも、一つ言えるのは、彼のことがあったから、今の生き方への決意が深まったんだと思います」
 そうした夫の変化を見てきた妻は、3年前に入会した。2014年、滝口さんは会社で最年少の常務取締役になった。

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