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よしの227「土人」って放送禁止用語だったの!
つかえないことばが ふえたって ひょうげんのじゆうが へったってことかなあ?
わたしは しずかなゴリラに あこがれてるから「土人」って すてきなことば。
しずかにしていられる かんきょうがあるゴリラにあこがれてます。
https://www.youtube.com/watch?v=rT8k9F4u4vY
「はじめ人間ギャートルズ」OP
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↑なんでか パヒュームがいるよ?
オナラパヒュームは つらいけど どうとくきょうてきに うつくしいものは みにくくもある とあるので みにくいものは うつくしいのであるから オナラは うつくしいのである。くさいオナラと おくちのニオイ ワキガ みにくい わたしは なんとうつくしいことか と おもわなくちゃ。
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でも内間利幸さんが おきなわのひと で テクノロジーてきないみが はいってくると どうなるのか?
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ふくおかの けいさつも おきなわにいってるけど しみんかつどうを ぼうがいしているのでしょうか?荒木さんに きいてみます。
http://www.mag2.com/p/news/225417
機動隊員が沖縄県民へ「土人」と発言する空気は誰が作ったのか?
沖縄県で市民デモの鎮圧に当たった、大阪府警所属の機動隊員が市民に向けて「土人」と発言したことが大きなニュースとなっています。「差別発言」として報道されているこの発言について、メルマガ 『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者で、ジャーナリストの引地達也さんが持論を語っています。引地さんはこの発言を「オオサカの環境で培われたもの」と語り、侮辱する意図はなかったのではないかと機動隊員個人を責める論調を疑問視しています。むしろ問題の本質はこのような発言が生まれる「空気」を作り出した日本政府にあると指摘しています。
「土人」なる言葉を発する空気は誰が作ったのだろう
沖縄県東村高江で、ヘリパッド建設に抗議する市民に、現地に派遣され警していた大阪府警所属の機動隊員が「土人」と発言したことは、菅義偉官房長官がコメントし、金田勝年法相が差別用語との認識を示し、松井一郎大阪府知事がねぎらいの言葉をツイッターで発信したことなどで、大きな波紋を広げている。
放送禁止用語として、メディアでは取り扱われなくなったこの言葉が、問題の本質としてメディアを飛び交っているのは何とも皮肉のような現象である。これを「言葉と思想・社会」という面からとらえると、どうしてもわれわれに存在する既存の差別意識の問題として考えてしまう。
ちょうど私は、この週末は大阪にいて、久しぶりに盛況な難波の街を歩き、たこ焼きや串カツを食べ、吉本新喜劇を観賞した。その時々で耳に入る「オオサカ」の人たちの会話、やりとりに、通算約7年過ごしたことで得た「オオサカ感覚」は懐かしさ、親しみやすさとともに、差別も区別もごちゃまぜで表現してしまう空気を思い出してしまう。
そして、今回の発言は、国家権力によって抗議を抑え込もうとする「大きな力」と、その力を「行使させられている」庶民の内在化した差別とのアンバランスによって生み出されたのではないかと、考えてしまう。
吉本新喜劇は面白い。コメディは人の愚かさを嘲ることでもあり、そのどうしようもない人間を包み隠さず表現するところに醍醐味がある。庶民劇の中心だから、行きかう言葉も庶民が普段使う会話となるから、それは放送コードとはかけ離れた庶民コード。そこには差別的な言葉も残ったままだ。残ったままなのは、社会には差別意識が残ったままだから、であるが、この線引きが難しい。
「マスクをしたままマスクの真ん中に穴をあけてタバコを吸っとるおかしいおっさん」
「電車の中で隙間8センチなのにお尻を入れて席を確保しようとするおばはん」
「スキニージーンズをはいて足の血が止まりそうになっている太った女の子」。
劇中や漫才で口から表現されるそれらのキャラクターやエピソードはすべて「おかしい」、そして「面白い」。これは「普通」と思われることとのギャップであり、笑いの中に「普通」の設定がある。それはごく自然に出来上がった庶民感覚の「普通」と「変」の境目である。これを巧みに表現するのが、お笑いの世界。
ブレヒトの「三文オペラ」がそうであるように、時にはその庶民の発言の一つひとつが権力に対峙する言葉だと受け取れなくもない。
大阪府警の若い機動隊員の「土人」発言は、その「オオサカ」なる環境で培われたもので、受け手からすれば由々しき「差別発言」ではあるが、その脈絡は琉球処分以降の沖縄の歴史を紐解いた上でなされたものではない。
政府という権力により治安維持の名目で「対峙」させられた立場の中で、相手と実際に肉体的に対峙する中で出た感情的な言葉である。この感情とは、相手を侮蔑するよりはむしろ、邪魔をする行動を嫌悪するところから生まれたもので、彼は警備をしなかったら、そんな言葉は出なかっただろうし、沖縄に観光に来て、現地の案内人に土人などと発言はしないのだろうと思う(勿論、本人の性格も分からないが、概ね常識的な線として考えたい)。
使えない言葉が増えたことで、差別はなくなったかもしれないが、その努力も虚しく、対立構図の中には、差別や優越の思想が入り込みやすい。