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よしの210「ストロング・マインド」
どうも、やる気が出たり落ち込んだりが激しいので、どうしたらいいかと本を読んでいます。
『ストロング・マインド』↓
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=61
あとがき
若いころは、秀才で弁舌さえ冴えていれば、不可能なことなど何もないように思われた。
しかし、時の流れの中で、人間的な「たくましさ」や「耐える力」「心の成熟」「心の豊かさ」というものが大切であることがわかってきた。
わたしは三十二歳の時に『常勝思考』というベストセラーを書いたが、その二十二年後『ストロング・マインド』という本を世に問おうとしている。
つくづく「こりない男」であり、積極的で建設的な考えを持ち続けていると感じている。
本書が繰り返し読むに堪える良書となり、多くの人びとの心の糧となることを、心より希望する。
2010年九月九日
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法
これで建設的な考えというのは、建設という仕事みたいで
『ストロング・マインド』はストが長い心みたいに思いました。
つまりアスベストがいけないみたいなの。
本もコンクリート色なんです。つまりフッ素フロン問題。
だいたい宗教って脱構築主義のようにも思います。
『癒しとしての笑い』にこんな話があります。
ある僧が仏心大師に尋ねた。
「極楽とか地獄といったものは存在するでしょうか」。
「いや、存在せぬ」と、大師は躊躇なく答えた。
たまたまこの問題が聞こえるところに、ひとりの侍がいた。
彼は大師の答えに驚いて、同じことを聞いた。
すると大師,今度は躊躇することなくこう答えた。
「そうだ。存在する。」
矛盾しているではないかと侍が問いつめると、仏心はこう言った。
「おまえに天国も極楽も存在しないなどと言ったら、私はどこからお布施をもらえるのじゃ」(10)。
よしの209谷口稜曄さん死去 長崎被災協会長として核廃絶に尽力
16歳の時、郵便配達していて被曝とありますが、写真がどうしても16歳にみえません。
8月31日の朝日新聞には十二指腸乳頭部がんでなくなられたとあります。
http://seikatuwaza.com/6442.html
十二指腸がん(乳頭部ガン)とは!症状や診断 治療法は?
―
この被曝で88歳まで生きられたのはすごいと思いますが、16歳に見えないのは私だけでしょうか
?
核廃絶ってどうしたらいいのでしょうか?
核で亡くなられたすべての方のご冥福をお祈りします。
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20170830001412.html
谷口稜曄さん死去 長崎被災協会長として核廃絶に尽力
被爆後の自分の写真を手に体験を語る谷口稜曄さん=2010年、長崎市
被爆後の自分の写真を手に体験を語る谷口稜曄さん=2010年、長崎市
http://irononamae.web.fc2.com/colorlist/ja.html
↑色の名前と色見本
· ダークブルー(dark blue)
濃青色(のうせいしょく)のスーツと薬指の赤い四角い指輪に意志を感じます。
2017年8月30日11時56分
長崎に投下された原爆で背中一面に大やけどを負いながら生き延び、その後、核廃絶運動に尽力した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さんが30日、がんのため長崎市内の病院で死去した。88歳だった。通夜は31日午後7時、葬儀は9月1日午後1時から長崎市光町16の18の平安社長崎斎場本館で。喪主は長男英夫さん。
16歳の時、自転車で郵便配達をしている途中、爆心地から北に約1・8キロの路上で被爆した。背中一面に大やけどを負い、長崎県の諫早市や大村市の病院で手当てを受けた。1年9カ月にわたってうつぶせのままで、退院できたのは被爆から3年7カ月後だった。
1955年にできた長崎原爆青年の会などに参加し、被爆者運動に力を尽くした。2006年から長崎原爆被災者協議会(被災協)会長を務め、10年からは日本被団協代表委員も務めた。
米国、欧州など10カ国以上に渡り、入院中に撮影された赤い背中の写真とともに、国内外で被爆の悲惨さを語ってきた。
被爆70年の15年には核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて、米ニューヨークを訪れ、同年8月、長崎市の平和祈念式典では被爆者代表として「平和への誓い」も読み上げた。
関連ニュース
よしの208ルワンダからワンラブ通信きました。
ルワンダは虐殺があって大変でしたけど、今は戦後日本の復興のようなスピードで発展しているようです。
日本も戦国時代とか、第二次世界大戦とか原爆投下とか阪神淡路大震災、東日本大震災とか、戦争、災害などにあいながらなんとか生き延びています。
日本沈没という映画もありましたし、北朝鮮からミサイルも飛んできています。
どこでどうなるか先の事はわかりません。もうこうなれば不滅の法です。
わたしは最近殺人事件とかイジメとか死についての事ばかり考えたりしています。
ワンラブ通信にボブマーリーのようなドレットヘアーのガテラさんの甥っ子のガエルさんがミュージシャンとありましたのでネットで見てみましたら、フランス語かなあ、さっぱりわかりませんが、とてもよかったです。↓
https://www.youtube.com/watch?v=X4iXEI8FIqc
Alien - MILK COFFEE & SUGAR (clip officiel)
http://www.onelove-project.info/index.html
よしの207-3国境なき医師団からメールがきました。
https://jp.mg5.mail.yahoo.co.jp/neo/launch?.rand=66s34d9kmcc35#tb=10yu7yb2
いつも国境なき医師団(MSF)の活動をご支援くださいまして、ありがとうございます。
今号は、激しい戦闘が続くシリア・ラッカの現状、MSFインターナショナル会長のジョアンヌ・リュー医師による衝撃的なレポート、作家・クリエイターのいとうせいこうさんの連載完結など盛りだくさんでお送りします。「事務局からのお知らせ」もお見逃しなく!
「MSFチームが数時間のうちに、銃で撃たれた避難者4人を治療するということもありました。その中には5歳の子どもも含まれていました」 |
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海外の大変な状況を思うと黒柳徹子さんを思います。
http://www.inv.co.jp/~tagawa/totto/
徹子の小さな放送局
■Vol.1「シシャモが陸を歩いていた」
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もうなんだかさっぱりわかりません。
この世は夢でしょうか?
よしの207-2国境なき医師団からメールがきました。
http://www.msf.or.jp/news/detail/voice_3521.html
ナイジェリア:石けんがあれば......――難民キャンプでE型肝炎が流行
ナイジェリア北東部のンガラ難民キャンプでE型肝炎が流行している。ニジェールから感染が拡大してきたとみられる。キャンプ内の劣悪な生活環境と洪水が重なったことで、短期間で数百人が感染した。
キャンプ内人口は約4万5000人。武装勢力「ボコ・ハラム」とナイジェリア政府軍間の紛争から逃れてきた人びとだ。国境なき医師団(MSF)の医療コーディネーターを務めるニコレッタ・ベッリオにキャンプの状況について聞いた。また、キャンプに避難しているマラン・イブラヒム・カナさん(43歳)が避難当時の状況を語った。
2ヵ月で患者数400人、死亡者も
雨期に入り水びたしとなったキャンプ内
心配な状況です。雨期に入って洪水が繰り返し起こり、通路もトイレも仮設住居も水があふれています。そこにさらに雨が降り、キャンプ全体が汚泥と汚水に覆われています。まるでばい菌やウイルスを広める"レシピ"のようです。トイレは設置されているものの、用を足す際にトイレを使わない人もいるため、汚水がいたるところに広がってしまうのです。
直近の2ヵ月でE型肝炎の患者数は400人を超え、MSFが治療した患者数は170人に上ります。ですから、E型肝炎の集団発生が宣言されたのも驚くにはあたりません。
通常は治療することで回復しますが、妊婦や胎児にとっては大変危険な場合があります。流産や死産に至る確率が高く、未熟児で生まれる確率も高まります。出産時と産後の大量出血の原因にもなります。
過去2ヵ月間で妊婦4人がE型肝炎に起因する合併症で亡くなっています。石けんや清潔な水といったシンプルなもので衛生面を保てば防げた死です。4人もの命が失われたというのは、あまりにも犠牲が多すぎると感じます。
MSFの健康教育チームは地域住民と協働し、キャンプ内の汚水やごみ処理を行っています。また、石けんを配り、給水の際の塩素消毒も手がけています。他の人道援助団体も給水改善に向けて動き出しています。
雨期は数ヵ月間続くので、E型肝炎の症例がさらに増えたり、コレラの集団発生につながったりするのではないかと懸念しています。ンガラは都市部から遠く離れた地域にあり、治安もよくないため、MSFの活動がさらに厳しくなることも予想されます。
3回目の避難でンガラ・キャンプに――マラン・イブラヒム・カナさん(43歳)
避難時の状況を語るマラン・イブラヒム・カナさん(43歳)
ンガラから15kmほどのところにある村の出身です。避難はこれで3回目。家族を連れて4日間も歩き続け、昨日、やっとキャンプにたどり着きました。最初の避難は、ボコ・ハラムに襲撃されて村を出たときです。それから3年間、大変なことがいろいろありました。
ボコ・ハラムは村のはずれに陣取り、私たちの食べ物や家財を奪いました。農作物も釣った魚も持っていかれました。夜間は外出禁止だと言い渡されました。多くの男たちが殺害されました。
政府軍が進攻してきて安全になると期待したのですが、そうはなりませんでした。時々、爆撃機が村はずれに爆弾を落としていく音が聞こえました。偶然近くにいた人も巻き添えになって負傷しました。地上戦も続いていて、村の外に出られない日が続きました。
生活は困難を極め、村民の多くが病気になって命を落としました。村には病院もありませんでしたから、治療のあてもありません。みんな逃げ出して、多くはこのキャンプに来ています。着の身着のままで逃げてきたので、ここでは何も持っていません。