[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
よしの209谷口稜曄さん死去 長崎被災協会長として核廃絶に尽力
16歳の時、郵便配達していて被曝とありますが、写真がどうしても16歳にみえません。
8月31日の朝日新聞には十二指腸乳頭部がんでなくなられたとあります。
http://seikatuwaza.com/6442.html
十二指腸がん(乳頭部ガン)とは!症状や診断 治療法は?
―
この被曝で88歳まで生きられたのはすごいと思いますが、16歳に見えないのは私だけでしょうか
?
核廃絶ってどうしたらいいのでしょうか?
核で亡くなられたすべての方のご冥福をお祈りします。
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20170830001412.html
谷口稜曄さん死去 長崎被災協会長として核廃絶に尽力
被爆後の自分の写真を手に体験を語る谷口稜曄さん=2010年、長崎市
被爆後の自分の写真を手に体験を語る谷口稜曄さん=2010年、長崎市
http://irononamae.web.fc2.com/colorlist/ja.html
↑色の名前と色見本
· ダークブルー(dark blue)
濃青色(のうせいしょく)のスーツと薬指の赤い四角い指輪に意志を感じます。
2017年8月30日11時56分
長崎に投下された原爆で背中一面に大やけどを負いながら生き延び、その後、核廃絶運動に尽力した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さんが30日、がんのため長崎市内の病院で死去した。88歳だった。通夜は31日午後7時、葬儀は9月1日午後1時から長崎市光町16の18の平安社長崎斎場本館で。喪主は長男英夫さん。
16歳の時、自転車で郵便配達をしている途中、爆心地から北に約1・8キロの路上で被爆した。背中一面に大やけどを負い、長崎県の諫早市や大村市の病院で手当てを受けた。1年9カ月にわたってうつぶせのままで、退院できたのは被爆から3年7カ月後だった。
1955年にできた長崎原爆青年の会などに参加し、被爆者運動に力を尽くした。2006年から長崎原爆被災者協議会(被災協)会長を務め、10年からは日本被団協代表委員も務めた。
米国、欧州など10カ国以上に渡り、入院中に撮影された赤い背中の写真とともに、国内外で被爆の悲惨さを語ってきた。
被爆70年の15年には核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて、米ニューヨークを訪れ、同年8月、長崎市の平和祈念式典では被爆者代表として「平和への誓い」も読み上げた。
関連ニュース