[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
よしの136小宮建工(株)
http://www.tokubetu.or.jp/positive_corp/h1759.html
みやま市瀬高町文廣1552-4 |
|
TEL |
0944-62-3674 |
-
姪浜の西日本シテイ銀行の外壁などの補修工事は
http://www.iwk.co.jp/gaiyo.html
岩崎建設(株)
福岡県福岡市中央区
西中洲12番25号
TEL092-751-9601
が元請けで、その下請けが小宮建工(株)です。
クリックするとおおきくなります。2回↓
小宮建工のヘルメットかぶったお兄さんにお話をお聞きすると、
実際仕事をしているのは、そのまた下請けの会社さんで、壁に塗料ぬってあってかなり臭いがしていましたが、保護具はつけていらっしゃらなかったようです。保護具の有効性も疑問ですけど。
ー
ー
ー
よしの134浄土宗と金光教
昨日、お墓詣りに浄土宗によって、その近くの金光教もよらせていただきました。
日々のおつとめで、読むのをいただきましたので、宗教のお勉強です。
―
浄土宗信徒日常勤行式という本というかジャバラみたいなのがあります。
↑CDもあるのですね。
―
http://www.chion-in.or.jp/01_honen/hon.html
月影の いたらぬ里は なけれども |
眺むる人の 心にぞすむ |
法然上人 |
この和歌は法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌です。
月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。
―
浄土宗と金光教は仲がいいのか私の住んでるところも近くにあります。
―
金光教の本は『日々がさら』といいます。
http://blog.konkokyo-mk.com/2013/08/blog-post_24.html
『 日々がさら 』、金光教では有名な言葉です。
現教主が、教祖さまから数えて五代目になります。その二代前、三代金光様が日々がさらと、お言葉残してくださいました。
「 さら 」というのは、新しいという意味。まっさら、とか言いますね。日々が新しい、そのような意味です。
掛け軸もありまして、3代目の三代金光様・金光攝胤君(こんこうせつたねのきみ)のお言葉がかけてありました。
「日々優り一月優り一年優り代優り 攝胤」
http://azabu-konko.com/tool/column/index.php?num=2&act=topic&ym=200812&eid=45
三代金光様・金光攝胤君(こんこうせつたねのきみ)45年祭でもあり、金光家でいただいた偲び草の色紙には「日々優り一月優り一年優り代優り 攝胤」とあった。
『日々がさら』に
氏子あっての神 神あっての氏子
天地の道理を人々に伝え、世界の平和と人類の助かりを生みだし、神と人とあいよかけよで立ち行くあり方を世界に顕現していく。
(どうしても神がさいしょ紙と変換されました)
金光大神賛仰詞
というのがあり、時々、原発とか従軍慰安婦とか冤罪とか世の中の事で絶望的な気持ちになる時、唱えるといいかもしれないと思いました。
生神金光大神様
よしの133-2核兵器禁止条約と原発労働
http://www.asahi.com/articles/ASK885GF2K88TIPE020.html
長崎市長、平和宣言で政府批判 「姿勢理解できない」
山野健太郎
2017年8月9日11時47分
長崎に原爆が投下されて72年となった9日、長崎市の平和公園で平和祈念式典が開かれた。田上富久・長崎市長は平和宣言で、今年7月の核兵器禁止条約の採択を「被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間だった」と歓迎する一方、日本政府に対し、「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と批判した。
午前11時2分、原爆が投下された時刻に式典の参列者は1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。田上市長は平和宣言で、核兵器禁止条約について「『ヒバクシャ』の苦しみや努力にも言及したこの条約を『ヒロシマ・ナガサキ条約』と呼びたい」と述べ、条約を推進した国々や国連、NGOなどの「強い意志と勇気ある行動」に感謝の意を表明した。平和宣言の半分以上を条約への言及にあてた。
一方で、「これはゴールではない」として、「ようやく生まれたこの条約をいかに活(い)かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われている」と訴えた。条約に反対する核保有国や核の傘に依存する国々に対し、核兵器に依存する安全保障政策の転換を求め、核不拡散条約(NPT)が課している核軍縮の義務を果たすよう求めた。
日本政府に対しては、唯一の被爆国として核保有国と非保有国の「橋渡し役を果たす」としながら、条約交渉にすら参加しなかった姿勢を厳しく批判。「条約への一日も早い参加」を求めた。憲法の平和の理念と非核三原則の「厳守と世界への発信」も政府に求めた。
安倍晋三首相は来賓あいさつで「真に『核兵器のない世界』を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要」との考えを示し、「我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく」と述べたが、具体策には言及しなかった。
式典には国連軍縮部門トップの中満(なかみつ)泉・軍縮担当上級代表(事務次長)のほか、核保有国6カ国(米・ロ・英・仏・中・イスラエル)を含む58カ国の駐日大使らが参加。昨年まで参加していたインドとパキスタンは不参加だった。トランプ政権になり、「核なき世界」の実現を訴えたオバマ前政権の核政策からの後退が懸念されている米国も臨時代理大使が参加した。
この1年間に新たに死亡が確認された3551人の名前が記された原爆死没者名簿も奉安され、長崎原爆による死没者は17万5743人になった。(山野健太郎)
よしの133-1核兵器禁止条約と原発労働
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
核兵器禁止条約(かくへいききんしじょうやく、英語:Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons、または英語:Nuclear Weapon Ban Treaty)は、核兵器の全廃と根絶を目的として起草された国際条約である。「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」(英: Convention on the Prohibition of the Development, Testing, Production, Stockpiling, Transfer, Use and Threat of Use of Nuclear Weapons and on their Elimination)とも呼ばれる。
2007年4月、コスタリカ・マレーシア両政府の共同提案として正式に国連に提出され、2017年7月7日に122か国・地域の賛成多数により採択されたが[1]、全核保有国は不参加[2]、アメリカの核の傘の下にあるカナダやドイツなどNATO加盟国や日本、オーストラリア、韓国なども不参加となった[3][4][5][6][7][8]。
50ヵ国が批准し、それから90日後に発効する[9]。
目的[編集]
核兵器の全面廃止と根絶。ただし、平和目的での原子力の保有は禁じていない。前文において被爆者の苦痛に対する憂慮と共に国際人道法と国際人権法の原則が、核兵器廃絶に関して再確認されている。
http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html
平成29年 長崎平和宣言
長 崎 平 和 宣 言
「ノーモア ヒバクシャ」
この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
日本政府に訴えます。
核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
2017年(平成29年)8月9日
長崎市長 田上 富久
-
―
長崎原爆の日 安倍総理あいさつ文
本日、被爆72周年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで哀悼の誠を捧(ささ)げます。
そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げます。
一発の原子爆弾により、一瞬にして、7万ともいわれる数多(あまた)の貴い命が失われたあの日から、72年がたちました。一命をとりとめた方々にも、耐え難い苦難の日々が強いられました。人々の夢や未来も、容赦なく奪われました。
しかし、長崎の人々は、原子爆弾によって破壊された凄惨(せいさん)な廃虚の中から立ち上がり、たゆまぬ努力によって、素晴らしい国際文化都市を築き上げられました。
この地で起きた惨禍が二度と繰り返されてはならない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を、絶え間なく積み重ねていくこと。それが、今を生きる私たちの責務です。
真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
そのため、あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を超えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、広島を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。
核を保有する国の人々を含め、長崎・広島を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への思いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取り組みをしっかりと推し進めてまいります。
そして、昨年12月、ここ長崎で開催された、核兵器廃絶に向けた国際会議での真摯(しんし)な議論も踏まえながら、核兵器不拡散条約(NPT)発効50周年となる2020年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献してまいります。
被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。今後とも、被爆者の方々に寄り添いながら、援護施策を着実に推進してまいります。特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ長崎市において、改めて、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶(あいさつ)といたします。
平成29年8月9日
内閣総理大臣・安倍晋三
―
よしの133核兵器禁止条約と原発労働
昨日、お寺にお参りに行ったら、地獄絵のようなのが飾っていりました。
―
核兵器禁止条約って核の平和利用(原発)を肯定しているのでしょうか?
-
長崎市長 田上 富久の平和宣言では
福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
とありますが、原発の作業員さんたちが今まで被曝でどれだけ亡くなっているかわからないと思います。
―
http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/413.html
放射能まみれの中で作業員が次々に謎の死!!
http://79516147.at.webry.info/201609/article_20.html
2016/09/03 11:18 半歩前へⅡ
東京でやれ、オリンピックだ、インフラ整備だと、はしゃいでいる一方で、東電原発のフクイチ(福島第一)の収束作業は現在も続いている。そして、放射能まみれの中で作業員が次々に謎の死を遂げている。
**************
そんな中、今年6月13日に亡くなったとされる原発作業員・山岸浩さん(享年50)の妻・光子さんが、怒りの声を上げた。
「主人は、3畳もない犬小屋のような作業員宿舎の個室で誰にも看取られず死んでいった。しかも、具合が悪くなり約1週間前から、その個室で臥せっていたそうです。なぜ、仲間も会社も病院に連れて行ってくれなかったのか。もし気に留めてくれていたら、もっと長生きしていたのではないか。それが悔しくて、今回お話することを決心した」と光子さん。
山岸さんは13日の朝、亡くなっているのを仕事仲間が部屋を訪ねた際に発見された。死亡推定時刻は13日午前0時とされるが、それはベニヤ板1枚ほどの薄い仕切り越しに、死亡推定時刻の30分ほど前まで人の気配がしていたという隣り部屋の作業員の証言から推測されたものだ。
「私が最後に会ったのは5月末に帰京した際。体調が悪い中、無理して浅草までデートしてくれたのが、最後の思い出となりました」
山岸さんは死の約2年2か月前から、東京で福島第一原発の作業員集めに従事。それは、復旧作業の元請けである大手ゼネコンから直請けしている土木系派遣会社を通じてのことだった。
「もともと主人は、この会社の社長のつてで人材斡旋の仕事をしていたんですが、人手不足から社長に口説かれ、自分自身も原発作業員になりました。死の約1年8か月前のことです」。
山岸さんは、電話やメールで現場の様子を語った。「当初は、建屋外の汚染水タンクをフォークリフトで運ぶ作業をしていた。その後、原子炉建屋の中で、かなり放射線量の高い場所の仕事にも携わっていた」。
続きはここをクリック
http://79516147.at.webry.info/201609/article_19.html
放射能まみれの中で作業員が次々に謎の死!! 2
http://79516147.at.webry.info/201609/article_19.html
2016/09/03 11:16 半歩前へⅡ
危険と隣り合わせの仕事だ。「放射線量の関係で20分作業して1時間休むべきところ、実際は作業2時間、休み1時間のサイクルでやらされた。“現場が青白く見えるんだ”と電話してきたこともあった」。
「主人は“肝臓が痛い”などと体調不良を訴えていた。5月末に帰京した際、約20キロもやせ、歩行もままならない状態だった。福島に戻るのを止めたが、“自分は現場責任者だから休んでいられない”と戻った」。
「主人は帰京時、毎日、作業終了時に計る放射能測定結果の紙を束ねて持ち帰っていたが、数値のほとんどがゼロだった。遺体を引き取りに行った息子たちの話では、地元警察で解剖して放射能測定をした数値もゼロと説明を受けた。
いくらなんでも、そんなわけないと、葬儀の場で派遣会社の社長に問い質そうとしたが、不信感を抱いた息子と睨み合いになり、社長は線香の1本も上げず、“休日に亡くなったから労災は下りない!”と言い残して帰ってしまった」。
光子さんから見せてもらった「死体埋火葬許可証」の死因欄には「一類感染症等」と記されたところが消され、「その他」となっていた。
ちなみに、一類感染症とはエボラ出血熱、天然痘、ペストなど感染力や死亡率が極めて高い感染症を指す。光子さんによると、この他にも今回の山岸さんの死亡時の対応に関しては不可解な事実があるという。
「息子たちが警察から宿舎に戻ってくると、すでに主人の部屋は勝手に片づけられ、返してもらえたのは時計と携帯電話ぐらい。主人は几帳面な性格で、給与明細を束にして持っていたはずなんですが、その明細も放射線管理手帳も、戻ってきていません」。
亡くなった作業員の遺族としてみれば、こういった点に不信感を抱き、感情的になるのは当然のことだろう。実際、“隠蔽”とも思われるような事実は常に横行していたと、生前の山岸さんが証言していたという。
「たとえば熱中症で仲間が倒れた際、仲間が倒れた者を大きな布で覆って隠し、作業が中断しないようにしていた。また、救急車やドクターヘリで急病人が搬送されることもあったが、その際、自分が福島第一原発で働いていることは絶対に伏せるように指導されていた。
主人も入社時、福島第一原発で働くことを部外者に口外しないように誓約書を書かされたと、漏らしていた」。 (週刊大衆2016年09月05日号より抜粋)
―
『原発被ばく労働を知っていますか?』 報道写真家 樋口健二 クレヨンハウス 500円
左の写真
13か月に1回の定期検査中の炉心部(ドライウエル)入口。原発内は、放射能の海のような環境。被ばく線量の高い場所では、数分刻みで、1日に1000人以上の下請け労働者が人海戦術で作業をする。(1977年7月14日、福井県・敦賀原発)
テクノロジーで従軍慰安婦のようなものもないのかと思い ます。
―
安倍総理は原爆症の認定とともに原発労働の労災も認めなければいけないと思います。
いまだに原発の安全性を主張しなければならないのは核の脅威があるからではないのか?
どうすればいいのでしょうか?
―
https://www.youtube.com/watch?v=uGvIspfzLU4
宇宙戦艦ヤマト OP FULL