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仏のよしのさん。

56あやちゃんの せいしょにゅうもん。

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56あやちゃんの せいしょにゅうもん。

56あやちゃんの せいしょにゅうもん。

みうらおやこさんの「しんやくせいしょにゅうもん ○こころのかてをもとめるひとへ」

また すこしよんでみました。

かねもちの わがままむすこ マルコ

マタイは ぜいきんとりたてにんで みんなの きらわれもの。

マルコは みぼうじんの おかあさんに そだてられた かねもちの むすこ。

ダビンチの さいごのばんさんの おうちが マルコの おうちらしい。

「なぜ しょぜいにんや ざいにんと しょくじを ともにするのか」

「じょうぶなひとに いしゃはいらない、わたしがきたのは ぎじんを まねくためではなく ざいにんを まねくためである。

(マルコによるふくいんしょ 2しょう13-17 マタイ9しょう ルカ5しょう)

「わたしは ただしいものには ようじがないのだ ざいにんに ようじがあるのだ」

という イエスのひにくが パリサイじんに わかつたであろうか?

パリサイとは ぶんりされたものたち のいみ

ユダヤきょうの ゆうりょくな いっぱ

ユダヤの りっぽうに きわめてげんかくで とくに きよめに こころを もちいていた。

パリサイはに ぞくするひとは ユダヤじんの しんこうと せいかつの しどうてきがくしゃ たち。

 

パリサイの おこりは きよくないものから じぶんたちを ぶんりすることにあった。

 

それは じぶんは きよいという いしきのうえに うまれた せいかつたいど。

きよくないもの

しゅぜいにん ゆうじょ 「ちのたみ」ちのたみ とは ほうりつを さいぶまで げんかくに まもることのできなかったひとたち

この ちのたみを パリサイじんは ざいにん と よんだ。

パリサイじんたちは しゅぜいにんや ちのたみとは ぜったいに まじわらぬことを せいやくしていた。

あんそくび の きんしじこう

一、たねまき

一、かりいれ

一、ばいばい

一、てんか

一、ふうふせいかつ

一、しょくじのようい

一、九百メートルいじょうの ほこう

一、きゅうびょうならざる びょうきのいやし

など

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

 

マルコ3しょう1-6

3[編集]

3:1[編集]

イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。

3:2[編集]

人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。

3:3[編集]

すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、

3:4[編集]

人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。

3:5[編集]

イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。

3:6[編集]

パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

このかしょの ちょくぜん イエスは すばらしいことばを のべる

<あんそくびは ひとのためにあるもので ひとが あんそくびのために あるのではない それだから ひとのこは あんそくびにも また しゅなのである>

イエス様のおこなわれる きせきについて

あやちゃんは イエスさまの きせきを しんじています。

それは にんげんの ちえや ちからを それほど おおきなものに おもつていないから。

にんげんは 被造物(ひぞうぶつ) なんじゅうねんかの いきて しんでいく。

この こうだいな うちゅうの  どれほどのことを しっているのだろう。

「しるべきことが たいかいほどあるのならば ぜんじんるいの ちしきは その いってきにも しかない」

といったのは パスカル たとえじんるいが つきまでいったとしても じんるいは まだ たいかいの いってきすら しっていない。

 

(にんげんは びょうきについても まだどれほどのことも しっていないのではないか)

あやちゃんの たいけんだん2つ

じゅうねんらい みうごきもできず くちもきけない きびょうにかかった ともを みまったとき

「あっ!ほりた(あやちゃんのきゅうせい)せんせい!」

と きわめて めいせきに さけんだ ゆうじん。

でも そのごは ひとことも かたれなかった。

もうひとつは じゅうねんほどまえ さっぽろの しんたいしょうがいじの とくしゅがっきこうに おきたじけん

よくじょうのくんれん

のうせいしょうにまひの A君がりょうてをふって ふろのなかを ゆうゆうと あるいていた。Aくんは てもあしも つねに ぶるぶると ふるわせていたのにである。 

ふろあがりも コルセットをつけて ゆうゆうと てをふって あるいていく。

きょうとうは よろこびのあまり「Aくん」と うしろから よんだ。ふりかえったAくんは とたんに からだが ふじゆうなAくんにもどった。

にんげんの むいしきは ぜんじんかくの 8わりを しめている ときいたことがある。

つまり わたしたちが ふだん いしきしているせかいは 2わりにすぎない。

もし じぶんの しんそうしんりを しることができたら いやしえるびょうきは いがいに おおいのではないだろうか。

じぶんじしんで きずかぬ ふあんや きょうふ 

けんあく それらが にんげんを おもくおしつぶして ホルモンの はたらきを くるわせ からだの バランスを うしなわせる。そういう にんげんの からだを そうぞうすることができる。

あれをおもい これを おもうと かみのこ イエス・キリストのいだいなる あいのまえに びょうにんがたつたとき 

こころのすみに かくされていた なやみや くるしみから ときはなされてからだの じゆうが かいふくされるということは よういに かんがえることができる。

せいしょには もうじん おし あしなえ ちゅうふう 

ふじんびょう など さまざまな びょうきが いやされた きせきが かかれてある。

そのほかに 5せんにんのひとびとに わずか5つのパンと2ひきの さかなを わけて まんぷくさせたはなしや イエスが うみのうえを あるき それをみた でしたちが ゆうれいかと さけびごえを あげたじけんなど いくつもの きせきの きじがある。

あやちゃんは そのまま すなおに よんでいくのが せいしょのよみかたと おもっているそうです。

マタイにしても マルコにしても せいしょの きしゃたちは そのじだいに よませるために かいたのである。

 

 

 

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