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仏のよしのさん。

205Yナンバー2割 女性遺棄事件の沖縄・うるま

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205Yナンバー2割 女性遺棄事件の沖縄・うるま

205Yナンバー2割 女性遺棄事件の沖縄・うるま

車の往来、Yナンバー2割 女性遺棄事件の沖縄・うるま

Yナンバーって なんだろうと しらべると

http://www.asahi-net.or.jp/~lk5k-oosm/base/y_number.html

べいぐんの くるまの ナンバーらしい。

 米軍関係者の使用車であることを示す「Yナンバー」。この制度が横浜で始まったことによる。米国から運び込まれた車には、「Eナンバー」が着いている。

 沖縄県民の中には、「Yナンバーに気をつけろ」という言葉がある。事故にあっても、米軍関係者の場合、保障が受けられないことなどがあるからだ。

 しかも、このナンバーの車は民間地に駐車するにもかかわらず、「車庫証明」が不要という不平等がある。

 SACO(日米特別行動委員会)合意において、「Yナンバー」の廃止が合意されているが、いまだに実行されていない。

オススメ度 

 「日米地位協定」は、米軍によってお子さんをひき殺された海老原さんなど、「米軍人・軍属による事件被害者の会」の方々がかかわったブックレットです。十分な補償もない被害者・家族の無念と怒りの声が伝わってくる良書です。

でも ひがいにあわれた じょせいは ちあんのわるいところで よる ウォーキングを されていたのでしょうか?

そんなに ちあんは わるくないのでしょうか?

http://digital.asahi.com/articles/ASJ5R45KWJ5RTIPE00Z.html?rm=559

車の往来、Yナンバー2割 女性遺棄事件の沖縄・うるま

木村司、奥村智司

20165240510

大型の商業施設、港の工場、新旧の住宅……。それらが混在する沖縄本島中部、うるま市の東海岸。一帯の雰囲気は、リゾートホテルが並ぶ本島西海岸のそれとはかけ離れている。

 元米兵で軍属の男が死体遺棄容疑で逮捕された事件。先月末に行方不明になり、3週間後に遺体で見つかった被害女性(20)は、同市の住宅地で暮らしていた。「ウォーキングしてくる」。女性が同居男性にスマートフォンでメッセージを送った午後8時ごろ、記者は周囲を歩いてみた。

 市内を通る道路は、人影がまばらだ。10分ほど歩くと、ウォーキング中の男性とすれ違った。67歳。毎夜1時間歩くのが日課という。「若い人も含め、ウォーキングをする人は結構いますよ。でも、米兵を見かけることは少ない」

 確かに、米兵向けのバーが並ぶような「基地の門前町」はない。だが、市内には米海兵隊、キャンプ・コートニーなど米軍の陸海空・海兵隊の「四軍」施設が集まる。隣接する自治体には嘉手納飛行場など広大な基地もある。

 キャンプ・コートニー前で往来する車を数えてみた。15分間で、一般車209台、「Yナンバー」など米軍関係車が53台。5台に1台が軍関係だった。

 ウォーキング中の男性が言った。「この辺りは、沖縄のどこにでもある町。そこで事件が起きたからこそ、県民はおびえているんです」

ログイン前の続き■「苦しみ癒えてきたと思う頃に、また事件」

 若者が太鼓を鳴らし、路地を練り歩く。うるま市は沖縄の旧盆の伝統行事、エイサーが盛んな地域だ。

 その日も、エイサーの夜だったという。

 1955年9月、街の中心部で、6歳の少女が米兵に連れ去られた。自宅から250メートルほどの場所。家を出たのは、今回の20歳の被害女性と同じ、午後8時ごろだった。

 現在のるま市で起きた「由美子ちゃん事件」だ。少女は翌朝、車で30分ほどの海岸のゴミ捨て場で遺体で発見された。暴行の跡があった。

 当時の沖縄タイムスが伝えている。《少女の左手に草二、三本が強く握りしめられていた》

 「苦しいんですよ。事件があるたびに思い出して」。22日、記者が由美子ちゃんの親族の女性を訪ねると、女性は、それだけ言って言葉をつまらせた。

 連れ去りの現場近くに住む主婦佐次田恵子さん(61)は庭仕事の手をとめて言った。「被害者やその家族として苦しんでいる人が沖縄には数え切れないほどいる」

 佐次田さんは、うるま市の北隣、金武町出身。性暴力の被害にあい、人知れず米兵の子を産んだ知人がいるという。小学生の子どもが襲われ、町を去った家族の話も耳にした。「苦しみが癒えてきたと思う頃にまた事件が起きる。忘れたくても、忘れられない」。本土から見えない沖縄の日常があるという。

■児童17人が犠牲に

 うるま市役所の支所に立ち寄ると、1階ロビーにモノクロ写真のパネルが展示されていた。半壊した校舎、煙の上がるがれき……。59年6月30日、米軍機が地域の民家や宮森小に墜落し、児童ら17人が亡くなった、と記されている。

 足を止めていた女性2人に話を聞いた。玉山麗子さん(62)は「この辺が私の家だった」と現場の写真を指さした。家の外にいて墜落寸前の戦闘機が真上を通った、と振り返る。

 「そんな話、初めて聞いた」と驚く友人の横で、玉山さんは続けた。「ふだんは口にしないけど、米軍の事件や事故が起きるたびに『宮森』を思い出す。軍に殺されたのは1人だけじゃない。それを内地に伝えて」

 95年の少女暴行事件をきっかけに、沖縄戦を修学旅行生に伝える「平和ガイド」になった元中学校教諭の伊波宏俊さん(76)に、うるま市で会った。由美子ちゃんの両親と長いつきあいがあったという。

 71年前、米軍に占領された直後、伊波さんは4、5人の米兵が河原で女性を襲っているのを目撃した。53年には基地内で、兄がケンカの巻き添えになり亡くなった。宮森小の事故時は現場にかけつけて真っ黒焦げの遺体を見た。

 「一つ一つ怒りをぶつけていたら沖縄では生きていけない」。そう考えてきた伊波さんだが、今回の事件に自責の念を覚えている。「自分にもっとできたことがあったんじゃないか」

■「基地の全面撤去しかない」

 少女暴行事件の当時、副知事だった人も訪ねた。今回の容疑者の元海兵隊員が働いていた嘉手納基地の地元、沖縄市の市長も務めた東門美津子さん(73)。「うるま市だけではない。沖縄の至るところで事件や事故がくり返されてきた。県民は今、それぞれの身近で起きた事件や事故を思い出している」

 東門さんは、2008年2月の事件について語った。海兵隊員に声をかけられた中学生が、乱暴されたものだ。「基地があるから起こる。行政をやってきた人間として、順番があるのはわかっている。だから言わなかった。でも、言わせて。基地の全面撤去しかない」

 自民から共産まで超党派の県議団を中心に開かれた95年の県民大会は「基地の整理縮小」を掲げた。少しでも基地を減らして、という怒りの訴えだった。あれから21年。沖縄では今、悲しみや、悔しさ、やり場のない思いが渦巻いている。(木村司、奥村智司)

もちろん きちが なくなることを のぞみますが せんそうが なくなることを のぞみますし ぶき がなくなることも のぞみます。

べいへいの ひとが しあわせとも おもえません。

かがいしゃの べいへいの おかあさんを テレビでみましたが とても かなしそうな かおの ひとでした。

アフリカの ぎゃくさつを たいけんされた ひとの かなしみ みたいな ふんいきを かんじました。

 

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