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197-1にほんの のみ水。
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くるめの さいがいボランティアセミナーで
福岡大学工学部社会デザイン工学科の渡辺浩せんせいの おはなしを おうかがいしました。
土木が ごせんもん とのことで 熊本の益城町は 下水処理のみずを かわにながし それが たんぼに いっている おはなしをすると
久留米ののみみずは 日田の 下水道がながれてきてるし 福岡もだし 大阪は京都の下水道の水がながれてきているとのことでした。
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それで日田にでんわしてみました。
日田市 土木建築部 下水道課 管理係
〒877-8601 大分県日田市田島2丁目6番1号(市役所5階)
電話番号:0973-22-8219(直通) ファックス番号:0973-22-8247
日田のげすいどうの みずは 筑後川にいくとのこと。
大分の大野川ではないそうです。
下水道普及率は65,6% 27,3,31現在だそうです。
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環境課の山田さんに バキュームカーでの くみとりの しにょうは どこにいくのか おききすると 環境衛生センターで 下水処理場のとなりだそうです。
ユニクロのななめうしろ くらいのところとのことで 南友田にあるとのことでした。
https://www.city.hita.oita.jp/kankyo/page_00010a.html
日田市 環境衛生センター
〒877-0077 大分県日田市大字友田651番地
電話番号:0973-22-3472(直通) ファックス番号:0973-22-8166
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しかし ネットでは 大字友田 どうしてかとおもいでんわすると 吉野さんが
日田のばあいは 二重表示で 地番が大字友田、自治会などの住居表示は南友田町で郵便は南友田町だそうです。
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けっきょく筑後川にながれるそうです。
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浄化槽の普及率は27年度末で14,6%トイレの単独浄化槽が2%、あとの20%じゃくは ちょくせつ かわに かていはいすいが ながれるそうです。
日田は盆地で 山の上のほうが 下水のふきゅうが おくれているそうです。
かわのみずは たんぼに いくそうです。
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たかいところにある 下筌ダム(しもうけダム)にも せいかつはいすいは ながれてきていて そのみずを じょうかして ひたのひとは のんでいるそうです。
松原ダムや 大山ダムもあるそうです。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%AD%8C%E3%83%80%E3%83%A0
下筌ダム(しもうけダム)
蜂の巣城紛争[編集]
この下筌ダム・松原ダム建設において、そして日本の公共事業において避けて通れない問題として1958年(昭和33年)から1971年(昭和46年)まで13年間に亘って続いたダム史上最大の反対運動・「蜂の巣城紛争」がある。
経緯[編集]
1958年(昭和33年)、建設省九州地方建設局は松原・下筌ダムの実施計画調査を開始。水没予定地に住む住民への説明会を実施した。だがこの説明会はダム建設の必要性のみを説明し、住民の最大関心事である補償問題について何一つ語られることは無かった。この説明不足にたいして室原知幸(むろはらともゆき)を中心とした住民は建設省に不信感を抱き、やがて小国町において「建設絶対反対」の決議を採択することになった。
これに対し建設省はダム建設を早期に進めるため土地収用法に基づく立木伐採を行おうとした。この立木地主の中に室原が居たが、建設省の強引な対応に態度を硬化させ今後一切の交渉断絶を宣言。住民は玄関に「建設省関係者立ち入り禁止」の張り紙を貼り組織的な抵抗を図った。そして抵抗運動は更に加速し下筌ダム建設予定地の右岸に1959年(昭和34年)砦を建設し、住民が絶えず常駐して監視を行った。これが「蜂の巣城」である。
室原は翌1959年(昭和35年)に入ると建設省に対し「玖珠川にはダムを建設せず、地質の悪い大山川流域にのみダムを建設するのは問題」など「筑後川総合開発事業」の不備を15項目に亘って指摘した事業認定意見書を提出したが、建設省はこれを黙殺し4月に事業認定を行った。室原はこれに対し事業認定の無効を求め行政訴訟を起こすに至り、ダム建設の是非が法廷で問われることになった。この頃は安保闘争を始め全国的に労働運動が盛んな時期であったが、九州においても三池争議など活発であった。労働組合員や活動家等が支援し、「特定企業(九州電力)へ奉仕するためのダム建設反対」というスローガンを掲げ反対活動を行った。事態は次第に彼らの思惑を大きく外れた「反政府運動」の様相を見せ始めた。この中で6月、九州地方建設局の代執行に対して津江川で乱闘事件「九地建代執行水中乱闘事件」が発生、遂に流血沙汰となり室原は公務執行妨害で7月に逮捕された。この後事業は膠着化していった。
1963年(昭和38年)事業差し止めの行政訴訟は室原らの敗訴となり、即時控訴した。だがこの頃になると反対派が分裂、分裂派は代替用地の取得と早期生活再建を進めた。ダム建設絶対反対の町議会決議を採択していた小国町も条件付賛成に転じ、室原は孤立無援の戦いを強いられた。こうした中で6月遂に蜂の巣城が落城、12月には控訴審でも敗訴判決が下され、行政訴訟の敗訴が確定した。室原は懲りずに1964年7月には第2の蜂の巣城を建設する。しかし、1965年(昭和40年)6月11日の明け方に、第2の蜂の巣城も代執行により落城した。さらに同年分裂派が推進していた代替集団移転地の造成が開始され、ダム本体工事も開始されるようになった。室原は1970年(昭和45年)6月29日に死去し激動の一生は幕を閉じることになったが建設省は遺族との和解を模索し、11月建設省と室原家の和解が成った。そして13年の時を経て下筌・松原両ダムは1973年に完成した。
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けっきょく くにのほうしんに NOをいっても むくわれないのでしょうか?