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193三池炭鉱、宮原抗見学。
このかたに あんないしていただきました、三池工業高校しゅっしんだそうです、ありがとうございました。
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↑これは ごうせいしゃしんで ほんとうは うえは はだかで じょせいも ふんどしがたの パンツだったそうです。
これと おんなじこうずの じょうはんしん はだかの しゃしんがあって
ごうせいって すごいなあと おもいました。
しゃしんって どうにでもなるのですね。
この ろうどうは いっぱんじんで いいほうで しゅうじんのひとは もっと かこくな ところでの ろうどうだったそうです。
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http://www.e-net21.city.omuta.fukuoka.jp/yoneo-jh/yoneo.htm
米生中学校のみなさんの さくひんです。↓
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イギリスから せかいさいだいきゅうの ポンプを やく20まんえんで かったそうです。げんざいの おかねで やく20おくえん だそうです。
http://www.omuta-arao.net/history/tanko/miyahara.html
3.宮原坑についての詳細 |
3.1 宮原坑開鑿の主目的は坑内湧水の排水であった 万田坑、勝立坑、宮浦坑とともに明治後期から大正期の主力坑の一つである。出炭量は明治34(1901)年以降、年間20~30万tを推移していた。この宮原坑が開鑿された大きな目的は、坑内の排水を担うことであった。 宮原坑が開鑿される前、それまでの坑口からの採掘区域が拡大するにつれて、坑内の湧水は増加してきていた。そこで三井炭礦社の事務長であった團琢磨は明治27(1894)年6月に「三池礦山維持ノ件ニ付上申」を本部に提出し、宮原と万田を新たに開鑿することを訴えた。その中では宮原坑は既存の坑口の湧水対策のために、排水のための新たな坑口として期待され位置付けられていた。(『男たちの世紀』pp.41-42) この方針に基づいて、宮原坑は開鑿されることになる。まず、明治28(1895)年2月に排水と揚炭を兼ねた第一竪坑の開鑿工事が着工され、明治31(1898)年3月に坑外諸設備も含め竣工した。続いて翌年には、人員昇降を主とし排水採炭も兼ねた第二竪坑の開鑿が始められ、明治34(1901)年11月に竣工した。 開鑿目的で排水が重視されていたため、第一竪坑、第二竪坑共に、デビーポンプが2台ずつ設置された。デビーポンプは三池炭坑では勝立坑に初めて導入された最新の排水ポンプで、地上に設置したまま使用できる点が特長である。エネルギー効率が高く、それまで使われていたスペシャルポンプに比べると、単位揚水量あたりの石炭消費量が1/5にまで削減されている(高野江(1908)p.216)。これによって七浦坑の排水難も解消されることになった。 |