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119聖書ヨハネのふくいん より。
みうらあやこさんの 『○こころのかてを もとめるひとへ しんやくせいしょにゅうもん』より
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ふくいんしょ 4つ
マタイ、マルコ、ルカ きょうかんふくいんしょ
ヨハネのふくいんしょ れきしてきな キリストの じじつを のべながら しんがくてき
「イエスが かみのこであり すくにぬし であること」をしょうめいしようとしている。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html
ヨハネによる福音書
第1章
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
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言は ギリシャごの ロゴスだそうです。
ロゴスは どのくにでも やくに くろうしたそうですが
にほんの さいしょのやくは
ハジメニ カシコイモノ ゴザル
ロゴス ちせい えいち 「うちゅうに ないざいする しんぴてきげんり」
はじめに 言があった の はじめは ぶんごやくで 太初
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みうらあやこさんは しょうわ21ねん けっかくで たおれられました。
すると しゅうきょうの ふきょうしが やってきて
「はいけっかくと らいびょうは 天刑病といわれているのですよ。これは かみさまが あたえた ばつなのです。すなわち はいびょうは ハイハイといわないから はいびょうになるのです。そして じょうよくが ふかいと このびょうきに かかるのです。」
そのふきょうしは かおに あざのあるひとは ぜんせにおいて おっとの かおを ふみつけにしたひとであり、もうじんや ろうあしゃは ぜんせで なにか つみを おかしたむくいか おやの つみわ おっているのだと かたったそうです。
この ふきょうしのみならず ひとはともすれぱ゛ びょうきや さいなんを なにかの たたりか つみのむくいと おもいやすい。むろん ふせっせいや ほうとう わがままなどの げんいんで びょうきになることはある。が すべてがそうであろうか。よには まったく とうにんの せきにんに きさない びょうきや さいなんも かずおおくあるのである。それをじゅっぱひとからげに なんのたたりだの つみのむくいだの ぜんせからの いんねんだのと きめつけられてのではたまらない。それでなくても くるしんでいるのだ。そうしたことばは くつうのなかにあるひとを ますますくらいふちに つきおとすことに なるのではないだろうか。
わたしはヨハネのふくいんしょの9しょうを よんだとき どれほど なぐさめられたかわからない。まさに くらやみに ひかりが さしこんできたおもいだった。
第9章
9:1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 9:2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 9:4わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 9:5わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 9:6イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 9:7「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。