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よしの175空想ポエム・暴力団排除条例は暴力団敬意条例!?
ここは宇宙 原子核と核家族の星がありました。
暴力団を辞めた人が冤罪でつかまる
警察の人は暴力団の悪口を言うとむっとする
警察は暴力団に敬意をあらわしているので 辞めた人は 冤罪
そして
暴力団排除条例をかかげる
暴力団は 上納金の取り立てが厳しく
何かあると不始末とされ 指をつめさせられる
警察官は防弾チョッキをきていた
クロアチアとセルビアはなかよくできない
よくわからない テクノロジー
ここは原子核と核家族の星
ノンピーは 統合失調症だけど 警察はどうだろうか?
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/Laozi/
老子道徳経 ( 道家思想 《老子・荘子》)
養身第二
天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり。故に有無相生じ、難易相成り、長短相形し、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。ここをもって聖人は、無為の事に処り、不言の教を行なう。万物作りて辞せず、生じて有せず、なして恃まず、功成りて居らず。それただ居らず、ここをもって去らず。
「天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。美の裏には醜があるのだ。皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。裏には不善があるのだ。このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない」。
(2)ものごとの価値は相対的
世上の人々が美しいものを美しいと認めるとき, そこには,醜さ(の認知)が生じてくる。 世上の人々が善なるものを善だと認めるとき, そこには,悪(の認知)が生じてくる。 このようであるから, 有(存在)と非有(非存在)は,連なって生じ, 難と易は,相互に成り(補ってあり), 長と短は,対比して現れ, 高と低とは,相対する位置としてあり, 音と声は,調和して響き合い, 前と後とは,あい伴う(順序をもつ)。 そこで聖人は, 無為のままに物を扱い, 無声のうちに道を説く。 聖人は,万物の生起ををあるがままに認め, 身を処するのに,名声を求めず(外的な評価とは無縁であり), ことを成就しても,栄誉の見返りを求めない。 なぜなら,それらはもともと聖人に備わったものとしてあるからだ。
(The nourishment of the person)
All in the world know the beauty of the beautiful, and in doing this they have (the idea of) what ugliness is; they all know the skill of the skilful, and in doing this they have (the idea of) what the want of skill is. So it is that existence and non-existence give birth the one to (the idea of) the other; that difficulty and ease produce the one (the idea of) the other; that length and shortness fashion out the one the figure of the other; that (the ideas of) height and lowness arise from the contrast of the one with the other; that the musical notes and tones become harmonious through the relation of one with another; and that being before and behind give the idea of one following another. Therefore the sage manages affairs without doing anything, and conveys his instructions without the use of speech. All things spring up, and there is not one which declines to show itself; they grow, and there is no claim made for their ownership; they go through their processes, and there is no expectation (of a reward for the results). The work is accomplished, and there is no resting in it (as an achievement). The work is done, but how no one can see; 'Tis this that makes the power not cease to be.
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↓最近 名前も気になる。
道経 (上篇)
體道第一 (道の世界と名のある世界)
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。故に常に無はもってその妙を観さんと欲し、常に有はもってその徼を観さんと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は、衆妙の門なり。
「道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。 故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである」。
(1)絶対者「道(タオ)」の本質
語ることができる「道(タオ)」は,真の道(絶対者としての道(タオ))ではない。 名付けられるものは,真の名前(絶対者の名称)ではない。 その“名付けえぬもの”は,天地(あめつち)の始まりであり, その“名付けられるもの”は,万物の母である。 だからこそ,時に,人は心を空しくして“生の深奥(しんおう)”に近づこうとし, あるいは,“明示された形”を知りたいと,情熱を捧げるのだ。 (深奥といい,明示ともいうべき)これら二つのものは, (その本性において)同一である。 それらが明示される際に,多様な名前が付けられる。 それらは二つながら,“天地(あめつち)の謎”(宇宙の神秘)と呼ばれるべきものだ。謎(神秘)への探求の道は,さらなる深い謎をはらみつつ, “すべての生の謎(本質)”へとたどる入り口(門,出発点)である。
(Embodying the Dao)
The Dao that can be trodden is not the enduring and unchanging Dao. The name that can be named is not the enduring and unchanging name. (Conceived of as) having no name, it is the Originator of heaven and earth; (conceived of as) having a name, it is the Mother of all things. Always without desire we must be found, If its deep mystery we would sound; But if desire always within us be, Its outer fringe is all that we shall see. Under these two aspects, it is really the same; but as development takes place, it receives the different names. Together we call them the Mystery. Where the Mystery is the deepest is the gate of all that is subtle and wonderful.