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よしの146今日は終戦記念日です。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00000005-mai-soci
<戦没軍人の妻>「今も涙…」「もう1回会いたかった」
8/15(火) 9:00配信
◇福岡・新宮町の98歳の浦野チヱコさん
終戦から72年がたち、戦争を知る世代の減少が急速に進む。軍人恩給(公務扶助料)を受け取る戦没軍人の妻は今年度、初めて2万人を割る見通しで、戦争の痛ましさを語り継げる妻も残り少なくなってきた。記憶の継承が年々難しくなる中、残された妻たちは最後の力を振り絞って語り続ける。【宮城裕也】
「戦争が恨めしい。こればかりは忘れられん」。陸軍の軍人だった夫稔(みのる)さんが1944年6月、中国とビルマの国境付近で23歳で戦死した福岡県新宮町の浦野チヱコさん(98)は、今も稔さんが出征した42年当時を思い出すと涙が止まらなくなる。
米コロラド州で開拓移民の両親の元に生まれた稔さんは9歳の時、県内に住む伯父の養子として来日し、日本国籍を取得。39年6月、稔さんが18歳、チヱコさんが20歳の時に結婚したが、子供のころ日本語がうまく話せずいじめられた稔さんは「早く入隊して日本人として認められたい」と話していた。
40年9月に長男が生まれてからは「この子のためにも戦争には行きたくない」と話すようになったが、翌年、20歳で徴兵され入隊。チヱコさんは帰りを信じて農業と子育てに明け暮れた。
42年7月の深夜、一家が寝静まった自宅に稔さんが突然帰ってきた。「今から戦地にたつ。顔だけ見に来た」。生まれたばかりの次男の顔を見て「達者で暮らさんとね」とほほ笑んだ。45年6月、戦死公報が届いた。
「あれが別れの印やった」。チヱコさんの目が涙にぬれる。「『2年の兵役の間だけ辛抱すればいい』と思って1回しか面会に行かなかった。もう1回でも行ってあげればよかった」。その先は言葉にならなかった。
戦後、チヱコさんはがむしゃらに働いて幼子2人を育てた。米国で米兵となっていた稔さんの兄弟は戦後、進駐軍として来日。稔さんは自分が生まれた米国と戦う心中を妻に語らなかったが、チヱコさんは後に稔さんの実母から「兄弟げんかをすることになるなら日本に行かせなければよかった」と聞かされた。
終戦70年だった2015年8月、福岡県主催の戦没者追悼式に長男、孫娘とともに参列したチヱコさんは、約1100人の参列者を代表して追悼の言葉を述べた。福岡県の追悼式で妻が言葉を述べたのはこの年が最後で、16年以降は子が務める。チヱコさんは願う。「若い人がもっと戦争について耳を傾けてくれたら。戦争を知ってほしい。そして言い伝えてほしい」
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