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よしの123NPO宗教研究会
内間利幸さんと2人で始めました。
といっても何もしていませんでしたが、今から始めたいと思います。
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宗教のお勉強です。
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先日、幸福の科学へ行きましたので久しぶりに、朝、声に出して読む「正心法語」を読んでみました。
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霊は仏子で仏子は人間で人間は霊
霊は不滅の力 霊はすべて
船頭が心 針路を正しくするのが法語 法語は仏説
仏陀の説法
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http://buddha-osie.com/Instruction/index.html
仏陀の教えとは?
「どのような友をつくろうとも、どのような人とつき合おうとも、やがて人はそのような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである」
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やはり「縁」というものが人生の生きるための「何か」なのでしょう。
このページを見に来られた方も「めぐり合わせ」「縁」でしょう。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
四諦 ウィキペディア
四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる[3]。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた[5]。四諦はブッダが最初の説法で説いたとされている[3][5]。
概要[編集]
詳細は「#四つの真理」を参照
苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す[3]。根本説一切有部などは、四諦は四沙門果と同義としている[6]。[独自研究?]]]
四つの真理[編集]
苦諦[編集]
苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、人間にとってはこの世界の一切が苦であるという様態の真相、現実を指す。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。
集諦[編集]
集諦(じったい、じゅうたい、梵: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)または苦集諦(くじゅうたい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって表れたものである、つまり「苦には原因がある」という真理のこと。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じつ)とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。
集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦である。
滅諦[編集]
滅諦(めったい、梵: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、巴: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ、苦滅諦, くめつたい)とは、「苦は滅する」という真理。
道諦[編集]
道諦(どうたい、梵: mārga satya, マールガ・サティヤ、巴: magga sacca, マッガ・サッチャ、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。
なんだかむつかしいです。