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ひかる726-1耳庵のつぶやき「乾坤一擲」
これも出てきました。
「乾坤一擲」運命を賭して、のるかそるかの勝負をすること。
『可笑しけりゃ笑え』のところ、松永さんの風貌とあわせて、なんとなく可笑しいです。
松永さん九州電力の人だったと思いますが、原発導入のとき、どんなだったのでしょう?
正力松太郎さんが、導入に尽力されたのだと思いますが?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。
人物概要[編集]
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる[2][要出典]。
東京帝国大学法科大学卒で内務省に入省。警視庁警務部長のとき虎ノ門事件が発生し、警衛責任者として警視総監の湯浅倉平とともに懲戒免官となった[要出典]。
翌年、経営難で不振の読売新聞を買い受けて社長に就任し、新聞界に転じた。以後、政財界に影響力を拡大。1940年(昭和15年)の開戦時は大政翼賛会総務であったためにA級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。このためしばらく公職追放処分を受けた。
戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している[3][4][5][6][7][8]。また、自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた[9]。
駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。
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松永耳庵(まつながじあん)さん
明治8年12月1日 長崎県壱岐郡石田村の回漕問屋の長男に生まれる。
明治22年に慶応義塾に入学
福沢諭吉の養子桃介と懇意になる。
慶応中退後、三井呉服店、日本銀行にどに勤めるも長続きしない
明治33年 桃介の経営する丸三商店に入るがほどなく閉店
桃介の食客同様の生活をへて、桃介の援助で神戸に福松商店を設立
明治40年株式投資に失敗して無一文
明治42年桃介と組んで、福岡市に福博電気軌道会社(西日本鉄道株式会社の前身のひとつ)を興し、明治45年に九州電燈鉄道(株)と改称して北部九州の電力関係の企業を次々と吸収合併
大正11年 東邦電力を創設
昭和14年 国家管理が急速に拡大され太平洋戦争勃発の翌年昭和17年に東邦電力解散
戦後GHQの指示によって電力再編成問題が起きると昭和24年11月電気事業再編成審議会会長として復活
国家管理の日本発送電を解体して現在の現在のような全国を9ブロックに分けた発送・配電一貫経営の九つの民間会社が設立される。
茶の湯への傾倒は還暦を迎えた昭和10年松永安左エ門六十一歳以降のことで、『論語』為政編の「六十にして耳順う」に因む雅号「耳庵」を名乗る。
コレクションに唐津焼ありました。